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書き終えてシリーズ総括 [名リーダーを思う]

始めに
 「拓く 福島泰蔵正伝」の何処かに私の関わりを書きたいと内容との関わりよりも優先し、前書き・後書を充てた。そこを読んだ多くの方から「15年も福島大尉を追い続けたもの、根源は何か 」という疑問を呈された。ある意味狙いは当たったというもののその問いに対し私は答えを持ちあわせなかった。疑問が増えるにつれ、そこに答えるのは著者の礼儀という思いが私にのしかかってきた。たまたま「集いシリーズ」で答えを探し始め、施設同期会のS君の疑問に応える形で一応のゴールとさせて頂いた。私の中で今この段階で整理できた意味は大きい。その他も含め、出版後も「書き終えてシリーズ」でアクションをとり続けるからこそ、見えてきたものがある。これを機に、それらを整理し、福島大尉旅の大詰めと考える次のステージへの区切りとしたい。

1つ、「拓く 福島大尉正伝」のフォロー
 「拓く 福島泰蔵正伝」ではこれが福島大尉だ、埋もれていた真実だの境地に到り、雪中行軍と生きざまについて福島大尉が残した資料により、何を思いどう行動したかの真実を明らかにした。読者からはこれらに沿った感想を頂いた。特に最近はより深みのある反応や感想を頂き、著者として感じるものがある。例えば小郡駐屯地修親会や第4師団中隊長集合教育での講話を依頼され、31連隊八甲田山雪中行軍や福島大尉の生き様の真実を語り、併せて防衛のプロとしての参考事項等を語った。30年ぶりに訪ねてくれたT君は国難対露戦(陸戦)勝利の因は「零下12度℃になれば露営を切り上げ翌日の行動に移るという露軍の規定を実地に究めたこと」と冬季戦研究、雪中行軍の本質を突かれた。N氏は「福島大尉を悪い思い込みで見て「拓く」を読まないでいたが、読んでみて見方を改めた。私のように5連隊の悲劇にとらわれて福島大尉を偏ってみている人に(知らずにいる多くの方にも)益になる本である。」と福島大尉資料で語る真実の力、福島大尉のありのままの人物像からの触発 を語られた。歪んだ或いは誇張され偏った福島大尉しか見ないではなく、先ずは真の像を押さえて欲しい、と思う。S君は「拓く 福島大尉正伝」が5連隊遭難で覆われた真実を拓く、と語られた。著者の(当初の)意を超えた意と感じた。これらをもっと掘り起こし、(31連隊)雪中行軍や福島大尉の真実を明確にし、一人でも多くの人に知って貰い、教育・研究等に活用されるよう力を尽くしたい。

2つ、福島大尉が、生きていたら今に何を語るか
 一方でつい先日(6月9日)、東筑高校同窓会でK君からは3回読んだ。終章「立見師団長の不覚の思い」は立見師団長の思いにかりて著者の思いを述べている。今の世に活きるメッセージを感じた。例えば、武が嫌われ軽視されてきた。この結果として福島大尉や31連隊の雪中行軍が埋もれてしまった。全体を通して著者は雪中行軍と福島大尉の生き様の真実について、埋もれたものを掘り起こして、語っているが、そこだけではない。(終章では)武が嫌われ軽視されることが齎すものは何かというメッセージを感じ、考えさせられた。」との感想を頂いた。更に別のK君からは「40歳という若さで死んだ。生きていたらどんな陸軍、世の中になったであろうか」との感想も頂いた。これらを聞いて、武人(もののふ)として生き、地に足の着いた使命感を貫いた福島大尉ならではの今に活きるメッセージについて力強いエールを頂いた。以前から思っていたがここにきて背中を押された気がした。福島大尉が生きていたら今をどう語るか、の切り口でこれを深堀し、思いを巡らそう、と決意したのだ。出版原稿仕上げの段階では埋もれた福島大尉の真実を明らかにすることに注力し、今に活きるメッセージにまで手を拡げることは散漫になる、と終章だけの意志(スローガン的な)呈示に留めた。両K君は私の真意を見抜いてくれた。この点は今も私が福島大尉を追い続けてきたからこそ分かったことであり、両K君に感謝したい。メッセージに軸足を置くので「拓く」のフォローというより、「拓く」の拡充という意味で次のステージが相応しい、と思っている。
    
3つ、15年も福島大尉を追い続けたもの、根源は何か
 出版が決まり、原稿作成の当初、文芸社の役員の方から表記疑問を呈された。福島大尉を探す旅を念頭に「感応と共振」のワクワク感と前書きで書いた。しかし、未踏の思いは残った。「集いシリーズ」で各結節ごとに整理しようと思いつき、「集いその7続き」で一応の結論を得た。出版後もフォローを続けた根源は「先は見えないがこの先何かがある、福島大尉旅の奥深さや自分を信じもっと前へ、という前向きの思い」であった。整理にけりをつけられたS君の示唆、啐啄同時の集いに感謝。同時にS君の余裕を持って生きてきた生き様と感動する(若々しい)心に敬服。何故かは「集いその7続き」を読んで頂きたい。

 但し情念の部分は別、私の胸の中でもう少し見つめたい、と思っている。情念について付言すると、頂いた疑問の中で、(懇意ではあったが疎遠にしていた方から)いつの間にこんなことをやり遂げたのか、(年賀状などで福島大尉旅は承知していたが)ここまでとは思わなかった、後世に遺す仕事をしまして羨ましい、人生の仕上げの出版にロマンを感じるなどがあった。ことを為す意地や後世に残す仕事をする心意気などの見地からの発言と理解した。福島大尉旅は成案があって始めたわけではなく、感応と共振の連続に恵まれ、もう少しもう少しと前へと進んでいるうちに大化けしたものである。いつかどこかで福島大尉に名を借りて私の人生を重ね、ことを為すや名を遺したいなどの思いの源泉、情念といった方が適切かもしれない、が湧いてきたように思う。いずれその時が来たら考えてみたいと思うがここではこの辺で止めておきたい。


4つ、これで良いのか、を伝える
 4月27日小郡駐屯地広報資料館を訪れた。郷土(福岡・久留米)編成の龍(雲南正面、56師団)や菊(フーコン正面、18師団)の56工兵や18工兵連隊の戦績資料を拝見するためである。小郡駐屯地での講話当日、56工兵連隊長・龍陵守備隊長の小室中佐のお孫さんが東京から来館された由。お借りした「魂は甦る」に関連して本ブログ「小郡駐屯地講演会その1 龍陵守備隊隊長小室中佐の無断撤退命令を思う」にも投稿させて頂いたが大きな二つの収穫があった。著者が強く意識する地に足の着いた使命感に対比する新しく指揮下に入った龍陵守備隊に対する2師団の任務付与において示された師団長の大義オンリーの使命感と同紙に掲載された軍人勅諭に建国以来の功臣大伴氏が語られていたことである。これらから何かの因縁を感じたのも訪問理由の一つであった。館内には貴重な資料や遺骨収集の模様も展示してあった。英霊に敬意を込めた丁重な扱いであった。迂闊ながらこのような資料が展示してあることを知らずにいた。私同様知らずにいる人は多いと思う。工兵の聖地であり現代の施設の聖地としても大きな意義を持つ。このことを多くの人に知って貰いたい、と思う。
 また多くの従軍記・戦記(手記)があり、その手記の幾つかを見させて頂いた。特に戦後20年ぐらい経って書かれたものが多かった。戦後の混乱から抜け出し、生活も安定して余裕が出てきた頃に戦友の戦いぶりを残さねばと書かれたようである。中でも目についたのは、書いた人の思い、「これで良いのか」、という英霊に応える世の中創りのための魂の叫びであった。名もない人々の従軍記や戦記(手記)を伝えるのも大事なこと、と強く感じた。次のステージ「福島大尉が、生きていたら今に何を語るか 」との繫がりも大ありだと思う。
 
5つ、下り坂、黄金の70代のただ中にいる。今なすべきことは?
 
1つ目、感謝!感謝! 
 前稿でS君から頂い本からの気づきを書いた。今私は76歳、人生の下り坂で黄金期のただ中にいる。名実ともに耕好爺書楽歳である。その充実感はまさに「晴耕雨書」である。晴れの日にはマイファームで汗を流し、雨の日はリーダーに思いを巡らして書くことを楽しんでいる。これに「拓く 福島泰蔵正伝」のフォローや拡充も加わる。そのことに感謝!感謝!という気づきである。

2つ目、今なすべきこと
 この「晴耕雨書」は昨年3月までは仕事、昨年4月からは出版というやりがいが中心にあり、どちらかと言えばサブライフの意味合いが強かった。しかし今は「晴耕雨書」が生きがいそのものである。従って「晴耕」については果・花・菜の気持ちになって性根を据えて向き合い、その中から地に足の着いた喜びや楽しみを得たい。性根を据えて、とはこれからぐっと希薄になって行く世間と孤立する自分を受け入れその心を穏やかにして、という意味である。「雨書」については書き終えてシリーズで見つけたネタを基に自在な思いめぐらしを楽しみたい。特に「名リーダーを思う」は次のステージ「福島大尉ならではの今に活きるメッセージ」への反映も視点に置きたい。今までブログや出版で練習した「書く」腕をもっと磨きたい。書く苦しさに克ち楽しさをもっと味わいたい。

終りに
 以上アクションをとり続けてきたからこそ見えてきた諸点について、この稿を区切りとし再フォローを続けたい。「福島大尉が、生きていたら今に何を語るか 」については暫し時間を頂いて想を練り、次のステージに進み、福島大尉旅のラストランとしたい。

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
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ある集いに思うその7施設同期会続きその2・終り [名リーダーを思う]

前稿から続く

3つ目、「百歳人生を生きるヒント」読後感
 表題の本(五木寛之、日経プレミアシリーズ)をS君から出席者に進呈された。85歳の作者の視点は75,6歳の我々に非常に身近に感じた。軽く読めるから、読んでみてくれ、とのこと。手にして帰りの車中で一気に読破。第4木曜日の読書会で「ライフシフト」を(自分は)日本ならではのキャリア形成理論実践の観点から読んだが、今回は自分のこととして読んだ。その様を書きたい。
 
 作者は人生100年を25年づつの4期に分け、50歳からの3,4期を下り坂と認識している。登山で例えると上りだけを登山と考えてないか、登りと下りで登山である。そういう意味で下り坂のない人生は普通にはあり得ず、下り坂は人生の構成要素であり、そこに積極的な意味を見出そうとしている。そして50代は事始め、60代は再起動、70代は黄金期、80代はジブンファースト、90代は妄想、と10年ごとのあるべき姿を性格付けをしている。
 
 その中で50歳からの後半生を下り坂、70代を黄金期と認識する点に大きな共感を持った。
 
1番目、「人生の下り坂」について
 著者が指摘している老いの現実について4点が心に響いた。(自分が)心掛けてきて意を強くしている点であった。
①汚くなる。これに対し意識して身の回りをきれいにする。②体力・気力、耐寒・対暑力等がガクッと落ち、周辺を含め急(病)変が当たり前の境遇になる。これに対し今を悔いなく、一日一生の気持ちで過ごす。③下り坂の途中にも楽しめる景色はある。これに対し、楽しみは誰も与えてくれない、自分で見つける。④失ってゆく不安感や孤立感から無性に群れたがる。これに対し、所詮一人、あの世へは一人で行く。だから群れに安住を求めない。群れの中に居ても自分ならではの距離感を持つ。一人切りになり寝たきりになっても楽しく生きられる生き方を磨く。

2番目、「70歳代は黄金期」について
 私は76歳。著者の言う黄金期の真っただ中に今いる、名実ともに耕好爺書楽歳と感じている。
「拓く 福島泰蔵正伝」を書いてこれが福島大尉だ、埋もれていた福島大尉の真実だ、の境地に到達できた。多くの方の読後感などで私の境地を後押しして頂き書かなければ(出版しなければ)絶対に分からなかった。良かった!と思えた。福島大尉を世に問い、後世に遺るならではの仕事が出来た喜びは何物にも代えがたい。加えて福島大尉ならではの今に活きるメッセージ、地に足の着いた使命感や武人とは?等について深堀すべきという新境地に到達できた。このベースにブログ旅「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」と「晴耕雨書」を続けてきた、今も続けていることがある。

 これらを通じ思いを巡らし、書くことを時に苦しみ大半は楽しみながら修練をしてきた。自分の思いは奈辺にあり、どう書けば忠実に表現できるかを試し続け、ブログという公開の場で筆を走らせすぎてはいけない、配慮が無さ過ぎてもいけないと自分を縛り、何をどこまで書けるかを自問しながら、一歩ずつ歩を進めた。閲覧数を励みとしてここまでこれた。15年前には出版などという大それたことは思いもよらなかった。しかしその私にとって思いを巡らし、書くことは成長の証、大きな財産であり今後の下り坂を生きる糧となった。
 
 「晴耕雨書」の主題はマイファームで四季折々の花・果・野菜を愛で、リーダーとはに思いを巡らすことである。マイファームでの土いじりはある意味正念場を迎えている。雑草の蔓延り、特に今や地中深く根を張り巡らし、200坪の畑のいたるところに顔を出し繁茂する害草、への本格対処(戦い)が必至となった。自分の衰えを考えると、大問題である。どう克服するかはこれからも楽しく過ごせるか否かの鍵を握っている。旬を味う贅沢や孫娘に採れたての一番良いできものを贈る女房殿の喜びへの奉仕、花菖蒲のようにご近所様に喜んで頂く喜び、工夫や手間暇をかけ、育て、実りを目にし、手にする喜び等ここでしか味わえない楽しさに満ちている。又作物作りは明日を見据え明日に希望を与えてくれる。楽しさと希望は私の「黄金期」充実の柱である。もう一つの主題である「リーダー」については今までの考察を福島大尉像に反映させた。次のステージ「福島大尉ならではの今に活きるメッセージ」の考察へもテーマがテーマであるので、私の心に響く今の時代のいろいろな分野、陸上自衛隊に限らず、のリーダーのあり様を反映させることは更に発信力を増すに違いない、と楽しみにしている。この歳になってこのような楽しみや明日への希望が持てる生き方が出来るとは思わなかった。感謝!感謝!である。

 いよいよ残り半分の下り坂に入る。残りの「黄金期」を心から楽しみ、更に生を与えられるなら80代を「ジブンファースト」でこの世に一人しかいない自分に向き合い労り、そして90代を「妄想」で豊かに思い巡らし、出来ることなら書いて、楽しみつつ誰かのために、の道筋を辿りたいと願っている。
 終り
本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
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ある集いに思う その7施設同期会続きその1 [名リーダーを思う]

前稿から続く

2つ、S君の「拓く 福島泰蔵正伝」の感想と疑問と頂いた本に思う
1つ目、感想
 良かったぞ、幹候校など若い人の(心の持ち方や任務・訓練の取り組み方の)教育資料として活用できると思い薦めている。お前が書けるとは思っていなかった。ボキャブラリーの豊かさや表現法の適切さに感心した。自衛官としての体験が随所に滲んでいると感じた。自衛官ではないが八戸の甥っ子にも送り読むよう薦めた。思い切って尋ねたところ、12.3冊ぐらい購入した、とのこと。思わず足を向けて寝れない(位有難い!)と叫んでしまった。こんな感激!がこの場にあるなんて信じられない思いであった。

2つ目、疑問
 S君から3つの疑問を提示された。持ち帰って、この稿を考えれば考える程S君の人間洞察力はすごい、と敬服した。僕がずっと意識して或いは無意識に考え続けてきたことであった。まさに啐啄同時、この時に到った、と考え答えを纏めることにした。この場では以下の2つに答えたい。

1番目、何故「拓く」というタイトルか?
 自分は5連隊遭難で閉塞した真実を「拓く」という意味でとらえたぞ、と疑問を呈された。私は国難日露戦争勝利のみち(未知・道)、自分自身のみちその他を「拓く」という意味で使い、その他には入っていなかったので予想外であった。しかしあることが脳裏を過った。書き終えてシリーズを書き進めるうち書いて良かった、と思えることが随分あった。最近ある方(N氏)から読後感を頂いた。それには、昨秋「拓く 福島泰蔵正伝」を購入していたが、福島大尉について良いイメージが持てず、積読(つんどく)にしていた。というのは、道案内に雇用した地元住人を残酷な目に遭わせ、かつ何人か重い凍傷にかかったのに拘わらず、その後の治療等に誠意ある処置を執らなかったとか、青森第五連隊の遭難現場を通過しながら、救援を行わなかった等の悪評をどういうわけか思 い込んでおり、好意を全く持つことが出来なかった(からです)。
3月に入り思い直して読んだところ、貴台の描かれた内容に引き入られ、1日で貼付してある
地図を参考にしながら一気に読んでしまいました。私の思っていたことは全く見当違いなことでした。福島太尉の偉大な人物像、任務や訓練に対する考え方や取り組み方、八甲田山雪中行軍の指揮等に強い感銘を受けました。私のように青森連隊の悲劇に気を取られて、誤解をしているも者もいることでしょうし、そう言う方に偉人への正しい認識を持たせる読み物ですね。また、現職の自衛官には訓練の考え方や、取り組み方を学ぶ格好な資料にも成ると思います、とあった。
 
更に、それにしても貴台は年月を掛けて、資料の収集や関係者からの聞き取りや現地調査等を綿密にされ、この本を上梓されたことに、驚嘆する次第です。ともあった。 私は大きな流れとして、福島大尉や第31連隊の雪中行軍が福島大尉が残した資料によらず、福島大尉の沈黙や門外不出との言いつけで公表されず、語られてきた、と思ってきた。そういう意味では「拓く」で福島大尉の資料で福島大尉を語ったこと、特にその成功へのプロセスを明らかにしたこと、は第5連隊の遭難が閉塞した真実を拓く端緒になるかもしれない、と思った。S君の深読み力に敬服!


2番目、何故15年も続けられたのか、或いは続けられたものは何か?
 この疑問は多くの方から呈されてきた。正直自分でも良くわからなかったので自分探しを続けている。S君には自分を重ねたから、と答えたが・・・。やはり答えは一言では無理である。歩みの過程のステップ毎に思いの丈を通観してみたい。

その1、原点
 「集いに思うシリーズ、その6 最後の48会…」で述べたが原点は中隊長時代のおくれをとった、このままでは終われない、という思いと見守ってくれた自衛隊への報恩の思いである。

その2、福島大尉に関心を持つ切っ掛け
 群長時代、ある部外工事現場で長雨のためのり面崩壊、300M下流の人家に土石流が流下する危機に瀕し、夜中に呼び出されてその場で決断を迫られた。防大で土木専攻ではあったが勉強不足を痛感し、もし土砂崩壊になれば自衛官終りと覚悟した。後に第4師団司令部幕僚長の時に一級土木施工管理技士を受験・取得した。これは退官後の民間務めに際し、自衛隊の経験を活かして安全管理面での貢献を狙いとして、労働安全コンサルタント資格取得に繫がった。そこで危機管理を自己の専門領域とし分かりやすく提示するため、八甲田山、福島大尉に注目した。これがきっかけとなった。
 
その3、福島大尉を探すステージ
 危機管理を学ぶからスタートし、次いで予想を超える予想外や考えていない予想外に遭遇したが成功した。何故かに関心を持った。その答えを探す旅が思いがけない出会いと展開、遺族から息遣い溢れる資料の提供受け、となった。そうなると人生全般に関心が移り、次々に新たなテーマとその答え、福島大尉の真実が現れ、感応と共振のワクワク感に満たされた。遺族が陸幹候校に遺品を寄贈する運びとなり、私はその仲立ちをさせて頂いたが更なる感応と共振の高見に到った。この10年余の旅を通じて一貫していたのは福島大尉をもっと知りたい、知れば知るほど知りたくなる思いであった。難解な資料の解読や行間の思いの感知には自衛官としての人生経験が役立った。これを伝えるのは自分(にしかできない)の使命という思いがだんだん強まった。ワクワク感の中身はブログなどを通じて思いを巡らすことと書ける(ようになる)楽しさであった。

その4、表現のステージ
 頃合いをみて冊子「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」(1/2/3)を作り、関係機関等に寄贈した。その一つ「第四木曜日の読書会」で、発表の機会を頂き、1年かけて、何を主題とすればこれが福島大尉だ、福島大尉が何を思いどう行動したかの真実に迫れるか、に思いをめぐらした。発表テーマは「困難と共に」としたが、その後その困難は「己が信じることを断行する性向」が齎したと気づき、その両者を確信を持って主題とした。いつの間にか自衛隊での体験等を福島大尉に重ね始めていた。
 
その5、出版のステージ
 原稿を出版社に見せ、いよいよ仕上げのステージに入り、主題に沿って仕上げて行くほどに、自分が自衛官として積み重ねた体験や考え方などが表現に入り込み、福島大尉に重なっていった。そしてこれが福島大尉だ、福島大尉の真実だ、という確信が深まるにつれ、後世に伝えねばならない、という思いが強くなっていった。年齢から今やらなければチャンスは永遠に来ない、最後のチャンスかもしれないという切羽詰まった思いが後押しをした。他にもいろんな思い、寧ろ情念といった方が適切かもしれないが、が巡った。しかしそこはまだ私の中で漠としている。

その6、出版後のステージ
 出版後もブログでの福島大尉旅を続けている。何故続けているか? ここもよくわからないが表面的にはブログの閲覧者32・6万人初め関心をもつ人に対し、「拓く」を紹介すること。「拓く」で書ききれなかった点等を補足することなどである。もっと深いところでは、先は見えないがこの先何かがある、福島大尉旅の奥深さや自分を信じもっと前へ、という前向きの思いに動かされた。福島大尉旅はすべてそうだった、と思いながら・・・。その思いは以下の新境地に到った、という思いによって裏付けされているように感じている。①いま、出版後も旅を続けて良かった、続けなければ永久にわからなかったと思える点を確信出来た。例えば武人(もののふ)として生き、地に足の着いた使命感を貫いた生き様に(私の中で)今の世に活きる強いメッセージの手ごたえを感じだした。②S君はじめ多くの方から寄せられた疑問、何故15年も続けられたのかについて思いを整理できた。

次稿へ続く

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ある集いに思うその7施設同期会 [名リーダーを思う]

初めに

 表記会がT君(先日土木11班の山岸会で会った)の帰郷に合わせ、平成30年5月2日、鳥栖市で行われ、久方ぶりに参加した。同期施設会とは陸幹候校38期卒業時に、施設科職種に配属され施設隊員として勤務した、福岡・佐賀県域在住の者で、当日都合のつくものが集った。会話は私にとり大変有意義な話題があり、「集いシリーズ」の中締めに相応しい時間と思えた。その様を書きたい。

1つ、T君とのこと
 T君と話しながら思い出したことと座が終わり博多までの車中での二人きりで話した中で印象的なことがあった。
 1番目、思い出したT3曹(当時)のこと
 最後の48会に続く思いでがT君と重なった。中隊長時代どん底に落ち込んだ時、立て直しに色んなことを行った。ある時、当時旭川第2施設大隊中隊長であったT君と電話で話す機会があり、建設機械操縦・分隊長・スポーツと万能で上下の信頼が厚く指導力も高いT3曹が九州との人事交流の時期になり、本人も両親のもとに戻るため鹿児島への転属希望を願い出ている、惜しくて仕方がないがやむを得ないとの情報を入手した。早速人事系統を通じ、上級部隊に立て直しの基幹要員として是非とも欲しい、と願い出た。かくして?かどうか、飯飯塚駐屯地320施設中隊に途中下車したT3曹は当初どん底ぶりに驚いたようであったが即溶け込み、銃剣道で頭角を現し、第5施設団の大会で、中隊を、どうしても届かなかった、優勝させ、飯塚駐屯地代表として全国大会に出場し、中隊基幹のチームの責任者として参加、優勝した。その他の面でも中隊躍進のなくてはならない人材として頑張って頂いた。鹿児島に帰してくれ、と口にだしつつも飯塚・第2施設群で退官の日を迎えられた。第2施設群長時代でも、前稿の48会でも、帰してくれ、だめだが二人の間のあいさつ代わりの恒例の話題であった。退官後も見込まれて学校法人につとめ70過ぎまで活躍し、大貢献して自衛官の評価を高めて頂いた。
 その場からT3曹に携帯電話し、T君と話して貰った。かれこれ50年ぶりの(電話)再会の労をとらせて頂いた。今年の48会では会えなかったので近況を伺うために、一人の人(ご一家)の人生を私が迷惑をかけた中隊のために捻じ曲げた申し訳なさを込めて・・・。

車中にて、庭師の棟梁の話にさもありなんと思った
 以前から庭師の話は聞いていたが、棟梁の話は初耳であった。自衛隊定年退官後の第2の職場を定年後、好きだった庭師、某市のシルバー人材センターの、になり、ある棟梁に弟子入りして初歩から学んだ。6年後、棟梁を継いだ。仕事が入ると作業種別、所用人員、工程並びに経費などを見積、報告。承認された計画に基づき、段取りがすべての実員指揮と粒不ぞろいの会員を教え且つ戦う統率の真剣勝負、自衛隊の小隊長をこの年で出来ること、がたまらなく面白かった。7年続けたが脳の梗塞が発症してリタイアした。退官後すぐにこの道もあったな、と篤く語った。 
 この時、幹候校卒業に引き続く施設学校の幹部初級課程(BOC課程)でのある一コマを思い出した。卒業前の総合演習(枝川(勝田市)での架橋と浮橋の混合橋の全通仮設演習)でT君は小隊長を命ぜられた。他の学生は彼の下で演習小隊員としてそれぞれ役割をあたえられ。彼は現地を偵察し、橋台高と橋軸線の設定を先ず行い、それから工程見積及び作業に適した作業編成を決め、段取り良く、架設作業指揮に移った。一昼夜で所用の時機までに所用の強度を有するまっすぐ・まっ平な架設に成功した。私は彼の緻密さに驚嘆した。後に尋ねたところ、技術の組み立て(とリーダーとして行うこと)に興味があると語った。さもありなん、若き日のキャリア育成過程で大事にしたものはその後の人生でそれなりの意味がある、と思った。 
以下続く
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菖蒲は尚武に通ず [名リーダーを思う]

 6月4日、午前強い日差しのもと、花菖蒲(北・南菖蒲畑、東・西側溝菖蒲畑)へのホースでの水やり(水道水)中、ご婦人が見学を所望された。有難いことと心行くまでご覧いただくようご案内し、暫しの話、に花が咲き、驚きの展開となった。

 ご本人は同じ町内、この畑付近は遊び場で、で育ち、今も結婚されてお住まいとのこと。バラを手掛けておられるので当花菖蒲にもどなたが、との関心があり、黙っては立ち入れないので、丁度水やりの姿をマイカーで見かけ、思い切って立ち寄った、とのこと。

 ひとしきり菖蒲問答をしているうち息子さん二人が防衛大学校の学生と判明。こんなところでこんな奇縁、世の中は広いようで狭い。

 いつの間にか水やりの手を休め、二人の生活・クラブ活動・学校の訓練行事、父兄の連携等に話題が巡った。私の青春時代の一駒を懐かしく思い出し、今は昔と共感を覚えることばかりだった。なかでもカッター競技の話には今の私の心に響くものがあった。

 カッター競技会は2年生の春に行われる洋上での中隊対抗の短艇の櫂(オール)を漕ぎ速さを競うものである。試合に備え新中隊編成後から、1ケ月位、毎日ポンドまで駆け足で坂を掛け下り、漕法訓練を行い、猛練習に励む。全員の気合が一致しないと前に進まないし、揃って技量が上がらないと早く進まない。腰を入れて全身の力で櫂(オール)を引くので腕は鈍るし尻の皮はむけやすい。一旦むけると治ることなく最後まで悲痛との付き合いになる。話の様子では息子さん(お兄さん)は乗り組みクルーのリーダー(責任者)だったらしく、このリーダーを重荷とは思わず、なり切ることに集中し楽しんだらしい。私は楽しい、という言葉が大好きで、彼に好感を持った。

 私は平成30年4月15日陸上自衛隊幹部候補生学校の記念日行事における候補生隊対抗の綱引き大会優勝チームのリーダーの戦い前の鼓舞や勝ちを決めた後の雄たけびをする際の気合の入った声や動作からリーダーは勿論全員の楽しげな気分が伝わって来たこと、を思い出した。

 あるべきリーダー像を目指し日々修練する。そこを見据え、リーダーになった時になり切るよう修練する。それを積み重ねて自己の器を大きくし、いつか来るかもしれない国家の一大事を背負う大覚悟の持ち主となる。日々の修練との向き合いやなり切りは真面目に取り組めば取り組むほど修行僧のごとく十分苦しい。どうせなら心に余裕を持って、楽しく立ち向かって欲しい。

 心の余裕は風雅の心や花を愛でる等の優しい心を生む。強さだけではない優しさを持ち併せた真の武人になって欲しい。福岡は元寇撃退の輝かしい戦績が残り、大東亜戦争において負け戦に陥った際、唯一大健闘した菊(フーコン、18師団)や龍(雲南、56師団)という精鋭を生んだ尚武の地である。この尚武の遺風を受け継ぐ地元出身の後輩へ“明日の日本を頼むぞ”と心からのエールを贈りたい。花菖蒲が齎してくれた尚武の爽風に感謝。

 防大では統率参考資料「福島泰蔵大尉の統率」を作られたと聞く、防大で「統率」を福島大尉に学び、陸幹候校で遺族が寄贈した福島大尉の息遣い溢れる遺品に触れ、「拓く 福島泰蔵正伝」を座右の書として、武人の心を磨いて頂ければ耕々爺(こうこうや)の願いこれにすぐるものはない。

 最後に私の関わりを述べさせて頂くと防大では統率参考資料「福島泰蔵大尉の統率」を作られる際、私が寄贈した冊子「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」(1/2/3)を参考にされた。陸幹候校へ遺族が遺品を寄贈する際には私はその仲立ちをさせて頂いた。昨年上梓した「拓く 福島泰蔵正伝」の著者は私である。
 
 本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
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友あり遠方より来る、「拓く 福島泰蔵正伝」が取り持つ縁を思う [名リーダーを思う]

始めに
  5月25日、高校の同級生、東京在住のT君が突然、我が家に訪ねてきた。私が30年前に東京から地方への転勤に際し、新車を購入したいと、当時販売会社に勤めていたT君のお世話になって以来の再会である。昨年10月「拓く 福島泰蔵大尉正伝」を読んだ、来年法事で福岡に帰るのでその時会おう、という言葉と共に近況を語ってくれた。「拓く」や私の出版という行為が何かの刺激になり、感じるところがあるのかな、と思った。
 不意の訪問であったが、僕も会いたかったので、丁度咲き始めた花菖蒲の手を休め、約束に間に合わした。「友あり遠方より来る、楽しからずや」にいう極めて楽しい時間であった。その様を語りたい。

1つ、彼の人生はプランドハップンスタンス【計画された偶然、クルンボルト】そのままである
 大学は某私大の演劇学科、しかし就職は車販売会社、セールス一筋で一生を通す。54歳で某損害保険会社に出向、代理店作りを担当する。車でT君についていたお客さんが保険でもお客さんになってくれ、いつの間にか代理店の仕事にも手を出した。60歳の定年で本社に呼び戻され、営業指導で全国の営業所回り。定年後に本社から声がかかるというのもセールスマン人生の評価の証である。学生時代に演劇つくりや役に魂を込めることで磨いたマインドをセールスに役立たせたに違いない。営業指導もかなり面白い仕事であったが、代理店との2足の草鞋を履いた。損害保険のお客さんが雪だるま式に膨らみ途中から代理店1本に絞った。車のセールスと同じようにお客様本位を徹底し、特に事故やトラブルのフォローは親身に現場、を貫いた。現在お客様は〇百人、この歳になるときつい、とおもうこともあるが信頼という自ら築き上げたブランドの誇りが自分を支えている。福島大尉は懸賞課題論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」募集とその後の論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」要請という偶然の機会に際して、すでに準備が整っていた。計画された偶然といい方が相応しい生き様である。T君も偶然に見えるかも知れないが車販売会社入社に際しては磨いたマインドを武器とし、出向に際してはならではのお客様を持ち、(意識はしていなかったが)代理店の準備はできていた。定年後の営業指導職は完全自立への滑らかな助走準備であった。常に目の前に本気で向き合い、その積み重ねが切り拓いた人生であった。「拓く 福島泰蔵正伝」のご縁で人生を語り合えた。楽しさ極まる、の心境である。

2つ、零下12度での行動を究めたことが日露戦争勝利につながった
 T君は福岡県宗像郡の大島出身である。中学3年時に八幡市内の某中学に転校して東筑高校に入学した。高校時代は話したこともなく今回初めて知った。T君の説明によると、その大島は対露日本海海戦が行われた海域にあり、宗像大社の中津宮があり、三女神の次女“湍津姫神”を祀っている。「坂の上の雲」(司馬遼太郎)に出て来る佐藤市五郎の日本海海戦の目撃談は宗像神社、創建以来書き継がれている沖津宮日誌に記されている由。又戦没した露軍人の遺体が多数大島に漂着し、島民は総出で収容・弔いを行い、手厚く遇したらしい。日本人117名とロシア人4830名の犠牲者の慰霊祭が2012年からロシア大使も出席して始まったそうである。従って日露戦争は身近に感じているので「拓く」を興味深く読んだ。なかでも零下12度での行動を究めたことが日露戦争の陸戦勝利につながった、と語ってくれた。将に図星と私は感じた。これは露軍に並び越え・勝つのシンボリックなテーマであり、福島大尉が語らなかった、何を思いどう行動したかの真実である。露軍は零下12度になると露営を切り上げ翌日の行動に移る、よう方面軍レベルで規定していた。露営し続ける危険の方が暗夜・酷寒・吹雪等の悪天候下の(行きあたりばったりではない覚悟をもった)彷徨による危険よりも勝っているという考え方であった。一方日本軍では規定はなく、その認識さえも共有されておらず、身を持って確かめようとしていたのは福島大尉ただ一人といっても過言ではない状況にあった。八甲田山雪中行軍で確かめ、その結果を論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」で対露戦勝利の方略として提言した。ここに感応してくれた読者に出会う喜びは何者にも代えがたい。

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第4師団創立64周年記念、福岡駐屯地創立68周年記念日行事に思う [名リーダーを思う]

始めに
 表記行事が平成30年5月27日、行われた。晴天無風の絶好の記念日日和。整然と並んだ隊列、一糸乱れぬ観閲行進に精強第4師団を実感した。その中で特に3つの点に大きな感動を覚えた。その様を書きたい。

式典における師団長高田祐一陸将の式辞
 厳しさを増す国内外情勢下、如何なる任務を与えられても即応し、任務を完遂するためには旺盛な使命感・責任感が必須である。隊員は今一度服務の宣誓「ことに臨んでは身の危険を顧みず責務の完遂につとめ、以て国民の負託に応える」に立ち返り、その重みを噛みしめ、覚悟を新たにせよ、と強調された。この服務の宣誓は他の公務員にはなく自衛官だけに課せられている。だからこその、最後の砦としての深い自覚に基づく静かな決意と受け止めた。私の心に深く響いた。

徒歩行進部隊の先頭は自衛官候補生
 観閲行進の先頭部隊は今年4月に入隊したばかりの教育中の自衛官候補生達である。僅か2ケ月弱で見事な練度に到達させた。見学の父兄も見違えられたことであろう。本人たちの努力は勿論であるが師団の教える力に敬服。明日を担う若者が先陣ということで師団の明日への希望も感じられた。

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小川福岡県知事の挨拶
 式典には服部副知事が出席し、知事挨拶を代読された。記念会食には知事が出席され冒頭2名の国議員と共に台上に上がられた。最初に小川知事が「昨年の北部九州豪雨災害での自衛隊の多岐にわたる災害派遣活動に感謝、どうしても今日は直接来てお礼が言いたかった、」と挨拶された。その後他の国会議員が挨拶される間、背筋をピンと伸ばし、微動だにされず10分以上「気を付け」の姿勢を続けられた。美しい!姿勢を正す敬礼だ。県民を代表し第4師団への心からの感謝と敬意が(態度に)溢れている、と私は言い知れぬ感動を覚えた。会場にも感動が静かに拡がるのを感じた。 

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ある集いに思うその3藤見会 [名リーダーを思う]

始めに
 表記会(H30.4.20、月瀬八幡宮(福岡県中間市)に参加した。東筑59期生が20年近く続けてきた恒例行事である。宮司の佐野君(59期)や奥様のご厚意に甘えて境内奥庭の藤の花、それからつつじを見ながら広間をお借りしての宴を楽しんでいる。ことしの藤は好天に恵まれ、見頃で大いに盛り上がった。

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1つ、藤見会でのこと

1つ目、長続きする三役
 冒頭の会長挨拶で会長木村君が(会長の)なり手が無くて続けているが30年になると切り出した。そういえば、59期生が東筑高等学校同窓会の当番期になったのが昭和63年、その前年の同窓会で58期からタスキを受け継ぎ、活動を開始した。副会長はあっちゃん(女性)、幹事は三好伸介君(愛称はしんちゃん)であった。今に到るもこの三人の顔触れは変わらない。絶妙の組み合わせとそれが醸し出す空気感はならではのものである。

2つ目、「拓く 福島泰蔵大尉正伝」の紹介
 表記紹介の時間を頂いた。固い話でいかがなものか、と思ったが楽しさや問題識を伝えたくて、表記出版後今に到った心境として4つのことを語った。1つ、感想で最も多かった、何故15年も追い続けたかについて僕自身もわからない、のでその答えを探索中。2つ、武人福島大尉について書いたが、武人についての関心が薄れている、と感じる。本物の武人とは、を自衛官は勿論多くの人に知って貰いたい。3つ、本書で触れた(福島大尉の)地に足の着いた使命感について深堀したい。旧軍に学ぶべき一番大きなテーマであるような気がしてきた。4つ、我らの先輩高倉健さんが何故文化勲章を貰ったのか、観客の目線で考えたい。このテーマは面白い、例えば「羆嵐」(小説吉村昭、ラジオ番組脚本倉本聰)。もう少し新境地のあぶり出しをしてブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」に纏め編(仮称)を設け、投稿予定。

2つ、59期会報全10号(平成14年~平成24年、1回発行/年)を手にして
 宴の中で三好君から表記会報を揃えている。欲しいものは寸志を添えて申し出よ、との連絡があった。今頃??三好君の思い入れの強さを感じ、紙面で見落とした?何かを感じ取りたい、と手を挙げた。後日わざわざ届けて頂いた。記憶に無かった私自身の関わりについても、藤棚の下や還暦記念の献納の際に(川道君が)写っている写真もあったばい、と添えられていた。併せて(川道君)の記事も2つあったばい、一つには花菖蒲の写真が載っとったばい、と言い添えられて。


1つ目、59期会活動でオアシスの絆を強く
 会報創刊号(平成14年7月1日)で木村会長は59期会のことを「我々の集いが”老後のオアシス”となるよう絆を強くしていきたいものですね」と述べている。であるからしてさりげなく会長の補佐や裏方を仕切るしんちゃんは”オアシス守り人”である。余談だが三好君は今も九州トースイの社長だそうで、30年その職にあり続けている由。人間力や仕事力さもありなん、と思う。

2つ目、藤見会の始まりと今への転機
 本題に入る前に舞台となった藤見会について59期会報から拾ってみたい。中間北中学校長等を歴任し、皆の世話役も進んで引き受けていた故奥村良子(年没)さんの発案で藤見会が小人数で始まったらしい。創刊号には「中間市の田園調布」というタイトルで月瀬八幡宮の宮司佐野君が神域を護る心がけと共に同期交歓(オアシス)の舞台として立ち寄って欲しい、との思いを吐露している。それに添えられた写真は藤棚の下で美女5人。初期藤見会の原型が確認できた。そのうち還暦を記念して59期生一同で月瀬八幡宮に牛の置石(当初は午歳に因み馬の奉納を考えたが天神様との関連で牛になった由。)を贈ろうという話になり会報創刊号で有志を募り翌年奉納に到った。会報第2号(平成15年5月20日)で献納行事と経過(像の写真付き)、藤見会に合わせて行ったこと、が掲載されている。

3つ目、事務局便りにみる会報への思い入れ
 先ずは事務局便りに載せていることを拾ってみたい。
三好君が中間北中学校の校長室に奥村さんを訪ねたおり、奥村さんが学校新聞を作っているのを見て、ふと思いつきで同級生新聞があったら良かろうな、と話したところ「それいいねーやろやろ」と大乗り気、とんとんと今回の発行となった。回を重ねることに不安に思いながら恐る恐る発行した【創刊号】。会報作りその他にも経費が必要なので事務局で話し合って同期生会費1000円徴集することにした【第2号(平成15年5月20日)】。奥村さんがなくなって手間取り、原稿依頼と発行が遅れた。そのことのお詫び【第5号(平成18年9月1日)】。会費納入者全員に原稿依頼の用紙を送付したところ20通を越える原稿が届き、紙面は一挙に6ページの拡大版に。従来は毎号2ページ。創刊当時10号までは続けようと故奥村さんと話していたが次回が最終号との予告【第5号(平成18年9月1日)】。奥村さんが亡くなり途方に暮れていた時、仰木三知子さんの助けでどうにか約束の最終号発行まで到ることが出来た。原稿がなかなか集まらずいろいろ工夫した。やり切った満足感等の回顧【最終号(第10号)(平成24年10月1日)】。
 
 平成20年某月、第6号(平成20年7月)の原稿用紙が送られてきた。三好君から電話も頂いた。茫洋とした言い回しで断ろうかと思ったが、しんちゃんの頼みだから書こうか、という気になった。その気になると我ながら面白いテーマが浮かび楽しく書けた。平成24年某月はみーこから電話で第10号で最後だから書け、書くことがあるやろうと言われ、その気になり、健さんの返事のことを書いた。我ながら福島旅のエポック文であると感じた。今回私は最終号(第10号)の三好君の回顧を見て原稿を集める計り知れない気苦労と奥村さんが亡くなって途方に暮れていたこと並びに三知子さんの助け舟で救われたことを思い知った。そして今回の59期会報(全)の提供での心遣いの深さにも初めて思いが及んだ。

 私は三好君の茫洋さに惑わされ、内心の切羽詰まった思いや気遣いに気づかなかった。茫洋さの裏に前向きならばこその苦悩や緻密な気遣いがある。良いと思うことは先ずやってみる人。しんちゃんが言うならやろうという人が周りに集まり、いつの間にかことを成し(約束を実行し)てしまう人。同じ方向を向く人や一緒に行動した人に苦悩を見せずに気遣い、そのことを記憶のポケットに大切に終ってくれる人。59期会のオアシスの守人が実に相応しい人である。


 終りに
 59期の旅行(毎年及び記念旅行(還暦並びに卒業50周年))や名簿の作成等の事業も活発で、オアシス守り人としての役目を十二分に果たしてこられた。もうじきマイファームの花菖蒲が見ごろを迎える。花見がてらしんちゃんの記憶のポケットの中の味わい深い話にも花を咲かせたいもの、である。尚寸志は受け取って貰っていない。これを以て寸志と受け取って貰えたら有難いが・・・。
 
以上

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「拓く」読後感に輝きを感じる人達その6-制服を作務衣に着替え「利他の菩提心」をNPOに籠める男 [名リーダーを思う]

始めに

 平成30年2月28日、土井義尚兄と昼食を挟んで4時間という長時間の懇談、福岡空港で帰京の便を待つ間、の機会を持った。以前からゆっくり話を聞きたいと思っていたが土井兄が「拓く 福島泰蔵正伝」を読んでくれたことから意見交換をという話になった。お互いの相手に対する最大関心は
僕(川道)は「自衛官退官後の誰にもまねできない生き様を貫くもの。」
土井兄は「川道さんの福島泰蔵調査エネルギーの源はどこから出てくるのか。(中略) 執筆間の過程での その精力的な 取材活動の継続を可能にしたものは何だったのか。」でした。ものすごく楽しい瞬く間に過ぎ去った時間を共有した。

 土井兄は防衛大(9期、昭和40年3月卒)出身、私と同期生である。幹部候補生学校・武器部隊勤務を経てスエーデン駐在武官・第7後方支援連隊長・武器学校長などを歴任し初代陸上自衛隊補給統制本部長(陸将)で退官。その後永平寺(曹洞宗本山)で1年2ケ月修行をし僧侶となり、乞われて小松製作所顧問に就任、その後特定非営利活動法人「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」を立ち上げ(初代理事長)、軌道にのせたと見るや新たな特定非営利活動法人「四端会」を立ち上げ(理事長)、合計10年を節目として男は脱皮すべきとの持論に基づき父祖から受け継いだ高成山自性院住職として新たな奉公の道(NPO)を模索している。退官後のユニークな生き方に驚きと敬服の至りであるが、土井兄の退官後のボランテア活動を貫くものは何か、に思いを巡らせた。
 ある日、仏壇に向かい、私も曹洞宗なので本宗の教義書「修証義」を手にして、発願利生の章中の「自未得度先渡他」の「菩提心」に思い当たるところがあった。「自未得度先渡他」の「菩提心」とは自分の利を後にして他者の利を先にする「利他」の悟りを拓く心である。この解釈にはこの悟りに到るために未知である「利」への道を拓くことや(人が嫌がる)より困難な「利」への道を進むことも含む、であろう。貫くものは「利他」の悟りを拓く「菩提心」と思い至った。

1つ、「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」の活動  
 
1つ目、概要
 
 会は世界各地の紛争跡地にある地雷・不発弾処理に直接かかわる、専門技能を有する元自衛官を主要メンバーとして構成される、国内では唯一地雷処理業務等を実施するNGOである。2001年9月から任意団体として設立、地雷処理・不発弾処理を中心事業として活動を開始し、2002年5月に東京都からNPO法人に認定された。カンボジア不発弾処理活動は2002年7月1日から、ラオス不発弾処理活動は2006年2月28日から開始した。アフガニスタン地雷処理活動は2006年11月9日から開始し、2013年3月に終了した。2008年5月に国税庁長官から認定NPO法人の認定を受け、アンゴラ地雷処理活動は2009年4月20日から開始し、2015年4月に東京都から認定NPO法人の認定を受けた。(ホームページから抜粋)

2つ目、立ち上げ

 永平寺の修行を終え、小松顧問として働き始めた土井兄のもとへ、カンボジアでJICA職員として活動をしていた旧部下から、カンボジアのUNTAC終了後日本は一人残らず引き揚げてしまい、何もフォローが無い。外国軍はPKO終了後も残って目に見える形でのサポートをしているのに比べ肩身が狭い。地雷処理のNPOを作ってくれないか。一度見に来てくれとの、連絡が入った。翌年も連絡があり、現地調査(2001.12)に出向いた。その結果二つのことが分かった。1つはCMACというカンボジアの地雷処理組織の副長官から土井兄にコンタクトしてきて、カンボジアでのPKO活動(UNTAC)の高い評価が生き続けており日本のNPOを待望し、連携したがっている。2つは地雷の犠牲者は内戦が終了して避難民が故郷の部落に帰住し始めて5年から10年間がピークとなるが危険回避教育が徹底すると急減し、その後は一定の傾向を示す。これに比し不発弾の犠牲者はほぼ一定である。そして一定傾向にある地雷の犠牲者数と不発弾犠牲者数の比率は5分5分である。不発弾処理から手掛ければ何とかなりそうだとの感触をつかんだ。武器学校長経験者として地雷処理が出来る施設科の人脈には暗いが不発弾処理が出来る武器科の人脈には自信があった。尚且つ費用的にも不発弾処理活動費は1/10~1/20で済むので全くゼロから立ち上げることを考えるとまず必要最小限の不発弾処理チーム数(1ケ)でスタートとせざるを得なかった。この時点で立ちあげの主な課題が3つあった。①危険な国際貢献活動に踏み出すことを国民は支持するか、②元自衛官が国際貢献の表舞台に出ることに国民の抵抗はないのか③2年間の活動実績というNPO認定の要件をクリアする活動をしなければならないがその2年間の財政・人的基盤をどう築くか。①②について、土井兄は顔の見える支援をしなければ口や金だけでは国際貢献の実は挙がらないという信念があり。陸幕勤務、スエーデン駐在武官時代等に築いた防衛省や外務省人脈、前述CMAC及びUNTACを通じて築いた国内外の人脈をフルに活用して真の期待(必要性)を把握し、元自衛官という専門家でなければ初期の目的達成はできない、と確信して、設立趣意書に「日本においては自衛官経験者が中核のNGOが期待されながら、関係者はこの種の活動を控えてきました。それなりの理由がありました。し かし、今や、国際協力に関する日本国民の意識は、著しく変化し、自衛官経験者が中心となったNGOが設立されても、国の内外から誤解を招くこともなく、そ の真意が正しく理解される時期が到来したものと判断するに至りました。 日本人の誠意と真心を国際協力の現場で、お金や物のみでなく現地で働く人間の姿として表現したいものと決意した次第であります」と思いを記した。③について、土井兄は小松で貰う給料の半分はお布施をするという思いがあった。定年後に貪ることはないという達観と布施の修行、という思いであった。その布施する先がJMAS認可に向けての2年間の活動資金拠出になった。加えて多額の拠出や寄付を申し出てくれる同志及び現地活動をボランテアで行う同志に恵まれた。小松製作所の全役員にも会員として名を連ねて頂いた。土井兄は他人の拠出や寄付も布施の修行の一環として有難く頂くという認識である。

3つ目、拡充

 やがて土井兄は業務範囲についての定款を見直し、地雷・不発弾中心の業務から、領域の拡充を志向する。安定よりも組織の特異性を発揮し本来の使命を限りなく果たすという理念からであった。自衛官OBを主体とするので軍事的知見、危機管理の知識技能、経験を積んだシニア集団という特色を背景に「JMASしかできない活動はJMASの責任でもある」という方向性を明確に打ち出し、アフガニスタンでの地雷処理活動調査の段階で外務省からの委託を受け現地調査を行った武装解除(DDR)事業そのものをJMASが引き受け、国際監視団(IOG)の運営も引き受けて、他国に参加を呼び掛け、2004年3月~2005年7月DDRの実現に貢献し、”顔の見える国際平和協力”の一端を担い、日本の旗をしっかりと立てた。

 後に「オヤジたちの国際貢献(2)」(2006年11月11日、発行人理事長土井義尚)の「コラム16 敢えて冒した無謀」で上記について「JMASのアフガニスタンDDR受託はJMASの立場・権限・補償能力・自己活動資金等の能力から考えれば無謀に見えたし、覚悟の選択であった。しかし、(自衛官OBよりなる)JMASの能力、特に指揮統率力、計画実行力、野外行動力等々オペレーションを実行する総合力から考えれば十分に自信が持てる仕事であった。決して無謀とは考えられなかった。幸運に恵まれたことも間違いない。」と総括している。このコラムにこの種使命遂行に関する自衛官OBならではの自負や誇りや覚悟が滲み出ている。

4つ目、アンゴラでの事後への布石

 アンゴラでの地雷処理活動(現地事務所長)は理事長を辞し、一兵卒、途中で理事も辞めて、となって2009年4月赴任した。赴任予定者が連続の外国勤務を奥様に反対され急遽辞退したのでその代役に率先して就く、JMAS自体が軌道に乗ったので(組織の私物化を避け)後輩へ申し送る、10年という節目で脱皮すべきという持論からも退くという判断をした。

一兵卒となってアンゴラに渡った土井兄は3つの試みを行った。

1、アンゴラの人々との交流、地雷処理に止まらず、を行い、友好関係発展の楔を打ち込んだ。①畑を耕し種を播き、育て収穫する、自然による教育の、「農業心」支援、②塗り絵での絵心支援、③お遊戯支援、④サッカー(土井兄は防大ではサッカー部)。これらの中から特に農業心による自立の手ごたえは、帰国後の次のパフォーマンスの大きな財産になった。 
2、JMAS後のNPO構想の芽生え
 アンゴラ在住の中国人は20万人、対する日本人は39人。圧倒的なマンパワー差に思いは尖閣諸島等の国境(領土)や排他的経済水域の経済・漁業・海底資源の保全へと向かった。今一般の日本地図は離島を含め領土領海の関係位置や全体が一目でわかるようにはなっていない。日本国民の領土保全の意識を高めるような地図を作ろう、と思い立った。
3、根本善の追究
 アンゴラの人々の貧富の格差を肌で感じた。食べたくても食べれない、学びたくても学べない、病気になっても医療が受けられない、治安が悪くいつ命を落とすかわからない、安心して暮らせる環境がない人々にとっては先ず生きること、次いで生き抜くこと、最後は生き抜いて死ぬことが一番の価値であり、善である。この実感は帰国後の次のパフォーマンスの財産となった。

 私も刺激を受け根本善「生き抜いて死ぬ」を考えた。私は「人は生きたように死ぬ」や「終わりよければすべて良し」の言を信条としてきた。今まで頂いた命は自分なりに精一杯生きてきた、という思いはある。最期に良かったと肯定したり感謝できればいうことなしの人生だと思っている。

2つ、四端会の立ち上げ

 会を2013年02月26日設立した。その目的は「社会教育の推進を図る活動の一環として東西約3,400Km、南北約2,800Kmの日本領土についての学習・訪問等、四端八端運動を準備・提供し、その認識と意識の向上を促し、現在及び将来にわたり、不特定かつ多数の日本国民の利益の増進に寄与する)であった。

 特色は以下の3つ

1、年に1万部(経費100万円)作成し希望する学校などへ配布する。
2、要望を聞き地図作りに反映する。例えば県の旗を地図の周りに掲載し、郷土意識の醸成も図る。
3、自ら拠金し、企業や一般から寄付を募った。ここでも拠金はお布施という修行の認識は一貫している。
3つ、高成山自性院(山梨県甲府市高成町)住職を核とした地域貢献

 土井兄は地域貢献活動構想を練っている。問題意識は「急速に進む過疎化・高齢化で限界集落が崩壊し、個人は豊かさの中で根本善に向き合う真剣さや感謝の心が薄れ、老人・低レベル生活者・病者・受刑更生者等の社会的弱者を救うセイフテーネットは貧弱」というものである。これらの解決策としてアンゴラで掴んだ「農業による自立」を基本に「全村全花」運動や社会的弱者のセーフテーネット作りを目的とする企画を検討している。

終りに 
 
 土井兄は最後に「拓く」の良さを本当に理解できるのは自衛官(OB)だけであろう、との感想を述べた。その発言に二つの思いを感じた。一つは自身が自衛官OBならではの使命を遂行してきたという自負や誇りと相似るものを私の「拓く」に感じてくれた、という思い。二つは軍事常識が薄くなっている現状では自衛官経験者達の心が動かされた点について一般人に理解が及ぶのかな、という懸念の思い。しかし息遣い溢れる資料に忠実に書いた”これが福島大尉”だ、という迫力や私の熱情が一人でも多くの方に伝わって欲しい、と思っている。自衛官や同OBに限らず共感する方の輪が広がって欲しい、広く武人というものへの理解を深めるために、と思っている。

  今にして思うとほとんど私から土井兄への関心話ばかりで、私に対する関心「川道さんの福島泰蔵調査エネルギーの源は どこから出てくるのか。(中略) 執筆間の過程での その精力的な 取材活動の継続を可能にしたものは何だったのか。」には殆ど答える暇(いとま)がなかった。でも聞きたい・知りたい思いとそれを楽しむ心の丈、だんだん良くなる法華の太鼓ならぬ感応と共振の輪がどんどん広がる楽しさを味わう心は伝わった、と思う。それが彼の関心に応える今の私の答えかも知れない。

 聞き違いや理解力並びに筆力不足で土井兄の意図から外れるところが多々あるかもしれないがその節は分不相応な私の心響に響くところを書きたい、という強い思いに免じ、お許しを頂きたい。(終り)
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「拓く 福島泰蔵正伝」読後感に輝きを感じる人達その5続きー自衛隊で培った財産を今に活かす山口八郎氏 [名リーダーを思う]

続き
大共感=輝きの元

 いずれも銃剣道の事例が目立つが、ここに重なりというか大共感=輝きの元がある。陸曹昇任直後の教育(当時は陸曹候補生課程教育はなかった)で銃剣道と出会い、ほれ込んで練習し、見事1級に合格してから本務への精励に加え銃剣道の選手及び指導者として歩んだ。この間、今も実践陶冶の銘としているのは以下の「武道を学ぶ人としての心得について」である。「真剣勝負の場に立つ時を常に念頭に置いて、平常心が齎す無念無想の境地と生死を賭けるに相応しい崇高な心境で臨めるよう強靭な肉体、健全な道徳精神、優れた武道精神、熟達した剣技、格調高い人間形成に生涯研鑽練磨しなければならない。」(筆者要約)

 この「武道を学ぶ人としての心得」の真剣勝負の場に立つ時を常に念頭に置く「体現」の精神は福島大尉が任官以来百事戦闘を基準とする「野外要務令綱領」の「体現」に努めた精神が重なっていた。銃剣道に打ち込んだ本気や覚悟は大共感=輝きの元となったと思われる。

 
 山口八郎氏が今も活かしている財産

 山口八郎氏が自衛隊で培った財産として今でも実践していることが三つある。一つは銃剣道をとことん究めることである。技を向上し己を磨き、強い戦士や健全な自衛官を育成すると共に銃剣道連盟の活動を支え、退職後は若者への普及にも力点を置いている。二つは部隊の大小に関わらず「自分が口にしたことの責任は自分がとる。本気で向き合うことで人や事態が動く」という、指揮官として、人間としての本気や覚悟のモットーである。上からの命令・指示であっても自分が部下に命じた以上はすべて自分の責任である。こうあるべきと思ったことはやり通す。筋の通らんことは誰であっても退かない。具合が悪くなっても逃げずに前を向き、(誤りや失敗したら)私のせいです、すみません、と謝る。シンプルで明快な座右の銘である。三つは上司・同僚・部下との絆を大切にし、感謝を忘れない生き方を心掛けている。特に仲間や部下を思う上司への意見具申は篤い。

 以上の3つについて、自分の人生においてはじるところがない、お陰様で周りの人から山口にまかせておけば安心だと信頼を得ている、と自信を持って語っている。山口八郎氏は熟練の技能・知識を有する准・曹・士の最先任者としての地位を築き、退官後はその財産を磨き、活かし、恩返しを続けている。

銃剣道について

 今だ現役選手!自らの高見に到達したという銃剣道範士(H16.11.13)8段(S53.11.10)・短剣道範士(H28.12.17)8段(27.11.23)を受験し合格して、日々精進の意欲を燃やす。錬武館(館主田中武樹氏)の指導員として小・中・高校生に銃剣道を教え、高校生の国体出場を果たして、更なるすそ野広げに意欲を燃やす。佐賀県銃剣道連盟会長を辞し(H29.5.31)、名誉会長(H30.1.17)として、平成35年佐賀国体を円滑に主宰できる組織体制つくりをサポートする側に回っている。

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モットーの実践教育について

 銃剣道の指導を通じ、教え子や現役の自衛官、幹部・曹を問わず、に自らのモットーを噛み砕いて伝授している。福島大尉のような人が自衛隊にいてくれたら、との思いでそのモットーを教える一環として本書「拓く」を推奨して頂いている。大変光栄で且つ有難い思いで一杯である。

終りに
 
 最後に福岡県小石原村村民運動場及び生活改善センター用地造成工事(昭和45年7月8日~8月8日)を作業隊長(当時一等陸曹)として行った時の思い出に他とは違う味があるので記しておきたい。
 剣道4段の腕前と指揮・指導能力を見込み、村長・小石原中学校校長から課外に中学校剣道部の指導を依頼された。7月14日から30日まで毎日課外に指導したが同中学校は8月1日・2日の甘木市・朝倉郡の剣道大会で初めて優勝した。聞けば30年以上いつも1回戦で敗退していたとのことで村中お祝いで湧きたった。初めての隊長であったが工事の出来は勿論広報活動にまで目を配り成果を上げた。又上級部隊も承知しているはず(と思っていた)作業についてその上級部隊の検査で質問された。上司の命令であったがその上司の名を出さず、機転を利かした説明をし、了承された。その上司が報告していないということがぴんと来たが、自分は納得して命令をしたので口にした以上は自分の責任と覚悟を決めた。

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
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