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熊本地震災害派遣、自衛隊の”一人でも多く救いたい””を思う。 [名リーダーを思う]

始めに

第8師団創立行事が平成28年8月10日熊本市内で行われ、来賓の蒲島熊本県知事の挨拶に感じるものがあった。  

「今回の熊本地震災害の特性は震度7クラスが2日の間に2回起こり、余震が果てしなく続き難しい対応を迫られた事でした。誰もが茫然自失、大混乱のなか発災1時間(14分)後には第8師団長に災害派遣要請を行いました。一人でも多く早く県民を助けて頂くため、躊躇いもありましたが平素からの良い関係が背中を押してくれました。迅速な出動で1200名余*を救って頂きました。」

*西部方面隊記念日(9月11日)の来賓挨拶で蒲島熊本県知事は1200名余と発言したのでそれに合わせ訂正。

大混乱の中、今救える命を一人でも多く救うため努力した自治体と自衛隊双方の姿が滲み出ている、と感じた。熊本地震災害派遣について私の思いを述べたい。

1つ、普段から築いた緊密な両者の関係

私は平成7年1月17日に発災した阪神淡路大震災における災害派遣の指揮官松島中方総監が派遣10日目頃に行った記者会見での涙を思い出した。それに関し、後日「阪神大震災 自衛隊かく戦えり」によって同氏が語らない思いの一端を知る事ができた。「もっと兵庫県や神戸市と良い関係が築けていたら、事前の訓練などが行え、出動後の連携が十分だったら、もっと多くの命が救えたのに・・・。」

 
自衛隊は営々として国民の生命財産を守る最後の砦たらん、もし災害派遣の場合は、本来の防衛任務遂行のため培ってきた実力を発揮し一人でも多く救える命は救うべしとの使命意識を愚直に果たしてきた。同時に緊密な連携態勢の構築を自治体・地域に積極的且つ地道に働き掛けてきた。

西部方面隊の統合防災演習

実動演習として、平成26年度.平成27年度は離島災害を想定して統合防災演習を沖縄県総合防災訓練に連携して行った。CPX(図上指揮所演習)として、南海トラフ災害を想定した自衛隊統合防災演習(JTR)を平成26年度に始めて九州7県を含む28機関の参加を得て行った。平成28年度は南海トラフ地震が発生した場合の想定及び事例研究を通じて、自衛隊と関係機関との連携について検討するとともに、自衛隊南海トラフ地震対処計画に定める災南海統合任務部隊司令部等の指揮幕僚活動について演練し、震災対処能力の維持・ 向上を図る目的であった。6月下旬、7月上旬に予定したが熊本地震災害のため変更し同災害の教訓等の普及等をした。九州7県始め関係機関から多くの参加者であった。


派遣当事者であった西部方面隊として中止や延期をする選択肢もあったであろうがやり切る意識・働き掛ける意識の高さに"だから頼れるのだ"、と心底思う。

又大災害を度々経験した事に自衛隊の働き掛けも作用して共同訓練・演習が盛況になっていると感じる。自治体等関係者の災害及び同対処についての認識や関係機関相互の共有意識の高まりが「救える命を一人でも多く救う」の質的向上、究極は自衛隊の出番なし、に繋がるよう一層期待したい。

自衛隊OBの活躍

熊本県・熊本市には防災危機管理担当の自衛隊OBが再就職しており今回の事態には自衛隊で培った力を遺憾無く発揮した、という。平時では恐らく直面することの無い極限事態でのトップの意思決定や命令・指示活動の補佐及び自衛隊との連携に貢献され、評価が高い、と聞く。


2つ、自衛隊の対処力の向上

救える命を一人でも多く救うために自衛隊が努力したもう一つは自衛隊自身の対処力の向上である。その対処力については以下の2点が強く伝わってくる。

1つ目、自衛隊のカバーする力

14日~15日にかけて、派遣中の隊員の携行食を全量被災者のために供出し、その分は九州中の駐屯地等から急送する決定がなされたという。全壊を免れた被災者の多くはとめどなく続く余震で指定された避難所ではなく我が家の近くで車中泊等をしたそうである。当初の大混乱の中でその掌握は不可能であった。従って支援が行き渡ら無い人々が多数存在した。平素からの地域と共に、の意識がもたらした自衛隊ならではのカバーであった。

16日夜遅く南阿蘇町に到着した13旅団(広島県海田市市)は直ちにてきぱきと指揮所を立ち上げ情報収集等の活動を始めた。これに町当局は元気つ゛けられ手が回らなかった被災者支援等が本格化したという。

2つ目、簡素化追求に運用の妙

16日未明の本震に際し阿蘇地区の被害も大きい事を掴んだ方面隊は第4師団を新たに投入して阿蘇地区を、第8師団を熊本市・益城町等地区を担任(集約)させた。以後他方面隊からの増援部隊を両師団長の統制下におき、指揮系統や両師団の行動地域を固定化すると共に各自治体への連絡幹部も両師団から差し出させて固定化した。

東日本大震災災害派遣では次々に部隊が到着したり任務を終了する等の度毎に指揮系統、行動地域、連絡幹部の差し出し区分等の変更が頻繁に行われる傾向が少なからずあった。桁外れの災害規模で未曽有の被害・混乱の中では仕方ないという側面もあったに違いない。その反省・教訓を活かし今回(の特性を踏まえた)に活かしあるべきを追求する努力、簡素・継続性追求は「一人でも多く救う」等の使命や任務に関する多様な組織間の上意下達、下意上達、左右連携等をシンプル且つ円滑にしたであろう。隊員の献身的行動は勿論その核となる運用の妙と合わせた対処力向上を感じた。

以上

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『月形 潔』生誕の碑(中間市中底井野公民館)に思うー冠名”月形”が使われ続けたわけ [名リーダーを思う]

始めに

『鹿の子百合の花便りにひかれて(2016-07-05 13:09:21)』で中間市中底井野公民館にある月形潔生誕の碑を確認したことは述べた。以降、『評伝月形潔』」(桟 比呂子、海鳥社)と『疑惑』(松本清張、文芸文庫)を取り寄せ、用務の傍ら読んだ。漸くイメージを描くことが出来た。この間抱き続けた疑問は何故樺戸集治監開設前の明治14年6月、その関係者しかいない、村というには程遠い原野であった時に「開拓大書記官調所 広丈名の布達」で冠された”月形”が村から町の名として冠され続けたか?刑務所という負のイメージとリンクさせたまま、今年て135年目を迎えたか?であった。その答を読後感として書きたい。

学んで新しい世の中(日本)をつくる志

月形家は代々福岡藩に儒学者として仕えた。潔は父健の長男。健は深蔵の4男。深蔵は月形本家5代当主。健は天保14年5月、上底井野村の大庄屋有吉長平の招きで福岡から中底井野村に移り住み漢学と書道を教える私塾「迎旭堂」を開いた。潔はここで生まれ育ち、父は勿論家系に繋がる”師”から「学び」の薫陶を受けた。幕末から明治にかけての動乱の時に、月形潔の祖父深蔵、叔父洗蔵(本家6代当主)は筑前勤王党の中心人物として思想行動両面で活躍。勤王倒幕運動を行う。国家いかにあるべきか、黒田藩は如何にあるべきかを説き、藩論が二つに分かれ揺らぐ中、己の主義を貫き刑をうけた。深蔵は牢居、洗蔵は斬首。潔は叔父たちの云う通りの世の中になった。その礎となった叔父たちの志を受け継ぎ学んだ事を活かして新しい世の中(日本の国)つくりをしようと誓う。

須倍都(しべつ)に一目ぼれ、監獄作りだけに終わらない本気の村つくりと北海道開発

西南の役始め士族の反乱等の重大犯罪者や自由民権運動等の政治犯が急増し、全国で3番目の監獄を北海道に作ることなった。内務省監獄局御用掛を命ぜられた(明治12年11月5日)潔は候補用地の現地調査を伊藤博文から命ぜられ随員と共に現地を歩く(明治13年4月17日~6月)。開拓使が提示した3候補の内、潔は須倍都(しべつ)に一目ぼれし、帰着後報告書を提出。意見書が認められ監獄作りを命ぜられた。用地造成・建設完了(明治14年8月)。村名を上申し月形と決まる(明治14年6月)。監獄開設(14年9月3日)、月形は初代典獄を命ぜられた。

監獄新設に当たっての国の方針は囚人の隔離、周辺地域の開発、定住促進の3つ。これを潔は監獄行政の狭い視野にとらわれず須倍都(しべつ)を核とした北海道開拓という篤い思いをもって取り組む。

須倍都(しべつ)は囚人の隔離上、石狩川と樺戸山脈に挟まれた最適地である。須倍都(しべつ)に農業を起こし石狩川の舟運、当別との生活道路などを整備すれ監獄運営にとどまらず地域は北海道第一の地とならん。遠からずして人やモノが集まる地となるは予め期すべきなり、この地を措いて他にまた良地あるを知らん(以上は『評伝月形潔』」(桟 比呂子、海鳥社)中の「北海道回覧記」(後述)から適宜抜粋)。潔は人生でやるべき、将に天命とでもいうべき事に出会った。

今は悉く原野であるが、その開拓は囚人を使役して行う。積雪時に木材を伐採搬出、雪解け後に開墾、農業を起こして自給自足すると共に石狩川の舟運、当別との生活道路造成などのインフラ整備を推進する。収容施設もまだないすべてはこれから始まる時に、収容施設さえない時に、認可を得て囚人を受け入れ使役した。官舎もまだないので潔はじめ集治監勤務者は囚人と共に寝起きして伐採開墾を行った。勤務者の官舎を併設し、監獄運営のための業者等の活動の便宜を与え、刑期を終えた囚人を含め希望する者には開墾した土地を与える等の定住を促進する。

潔は囚人について懲戒の目的だけではなく教化・更生を旨として接しなければならない。その手段としての開墾や農業生産は極めて役立つ。刑期を終えた囚人で希望する者には開墾した土地を与え身に着けた農業力で定住を促進すれば生きがいを与えその目的を達すると共に地域や国家のためにもなる、と説き続けた。


志を同じくし潔に同化した最も近い人々

当初の調査から監獄の増設・運営に潔と共に携わった人々がいる。海賀直常以下の7名である。潔と志を同じくし、潔に感化され想像を超える寒さや不便、次々に現れる課題克服等の困難及び喜びを共にした。海賀直常らは村名を”月形”と上申する。潔は「月形死すとも月形残る」と喜んだ。後に発起人として頌徳碑建立(後述)の労を竭す。彼らの月形への心からの信頼(傾倒)や月形と共にの誇りが時を経ても月形の志を伝え続けた源であり、月形の冠名が生き続けた源である。

ぶれない信念で現場を改善

明治18年7月27日非職被仰付て8月⒛日辞職、月形村・北海道を去る。後を追いかけるように翌19年4月2日免本官辞令(懲戒免職、以上山県内務卿名)を命ぜられた。理由書によれば稟議を経す専断処行し遂に収拾すへからさるに至る其怠慢不注意事に害あり。よって規律を遵守せず国に損害を与えたとある。

指摘事実のうち、事実関係の推察が容易な2つを例に挙げると、『17年度本監経費金5449円」を以て官舎24戸を新築したる事』」『本監吏員の醵金を以て会議所を新設し遂に其目的を達する能わず。1929円余の官費支給を仰ぐに至る事』がある。

官舎については開庁時142人が3年後には219人に増加しており、る中央の官舎の手当てが追いついていなかった事が十分推察される。会議所もしかりであろう。現場の困窮を踏まえ、責任者として緊急避難的な処置を行った、と推察できる。責められるべきは山県内務卿ではないかというのが率直な感想である。

結果的に中央は手当をせざるを得ず、潔が狙った事は出来た。自分のメンツや進退と引き換えに集治監施設やその運営並びに囚人の待遇改善及び月形村のインフラ整備などが捗った、とも言えよう。現場重視の徹底、その貢献は計り知れない。これを知った人は冠名”月形”に何の疑問も持たないであろう。


辞めさせたい理由が他にあったと思いたくなる。例えば囚人は懲戒目的で扱わなければならない、囚人は苦役としての道路構築に使役せよ等の方針転換がなされる動きがあった。しかも山県内務卿の主導で・・・。これに異論を唱えるように潔は内務卿宛てに北海道開拓意見書を提出する(17年12月頃)。その他にも監獄の運営などで意見書や伺いを頻発し、自己の信念を貫いた。中央から見れば現地の事は裁量で上手くやれとの風潮が蔓延していたのかもしれない。潔の信念がそれだけぶれなかった、といえる。

余談であるが辞めさせたかった理由は未だある。熊坂長庵のことである。潔は藤田組贋札事件を取り調べたが判決はおざなりであり、厳しく調べなければならないとの意見を持っていた。又贋札は極めて精巧であり熊坂が犯人というのは解せないことであった。長州と薩摩の派閥争いが根底にあり、長州閥の山県からみれば排除したい相手であった。私見である。



今に残る意見書等が伝える篤い思い

北海道現地調査において4月21日函館に上陸して6月5日函館に戻るまでの見聞を纏めた「北海道回覧記」(報告書、樺戸博物館蔵)から須倍都(しべつ)に一目ぼれの様子、気分の高揚が感じ取れる。

明治18年春潔は集治監の今後の目的を明確にした意見書(建白書、樺戸博物館蔵)を山県内務卿宛てに提出した。その中で、「(囚人を懲戒主義で扱う方針転換に反論して)単に検束の一点のみに偏り監獄則に拘って事業の改良をしないのは目的に向かってないのではないか」と疑問を呈し「北海道集治監の目的は開拓殖民に在る(以下略)」と主張している。

他にも寒さは囚人も同じという主旨の多くの伺い書などが現存する。これらから樺戸集治監の運営と北海道第一の都会となすべき月形村と北海道の発展がセットになった潔の思いが強く伝わってくる。時を経てこれらを目にする人は月形の冠名がもっともな事を了知するであろう。

典獄を辞した後も月形の心を伝え続ける人々

頌徳碑建立(明治34年1月)の中心人物鴻春倪等は開村功労を讃え、撰文で月形潔は監獄用地を須倍都(しべつ)に決め、集治監建設・開設、月形村開村発展の功労者である、と述べ、開拓使は君の労を多とし月形村と命名す、と記している。

月形町は樺戸博物館を建設し、樺戸集治監の追悼式を行ってきた。月形町発展の礎となった集治監等の関係者や囚人達の労を労ると共に思い半ばで斃れた人々の霊を慰めつつ、中心人物である月形潔の心を伝えて来た。月形町の桜庭町長は潔の生誕地である中間市の田中榮子氏に月形町観光典獄(大使)を委嘱し中間市との交流を図って来た。「向こうで大事にされている。生まれ故郷でほったらかしにしておけない」と田中榮子氏は動いた。同氏の働きかけを受け中底井野自治会の総会(H27.3)で「月形潔生誕記念の碑」建設委員会(会長:田中榮子)を立ち上げ募金等に取り組み建立(H28.6,28)に到った。

終わりにーこれからに向かって

花菖蒲のご縁で月瀬八幡宮を訪れ、宮司さんから除幕式の話を聞いた。そこから月形潔について思いを巡らした。何故?を自分に問うと、宮司さんの「月形潔の功績を伝え残し給え」、が私の心のどこかに作用したから、のような気がする。

疑問にはそれなりの答を見つけた。監獄と村と北海道の開発についての一体としたビジョンを持ち、官吏の枠にとらわれない広い視野と篤い思いで一隅から千里を照らした人であった。冠名”月形”(村(町))は至極自然である。月形潔は残念ながら故郷では知られていない。関係者のこれからへの発言等を紹介してこれからを考えるヒントにしたい。


◎除幕式神事祝詞:北海道開拓の先駆者としての筆舌に尽くしがたい困難を囚人と共に切り開いた功績を多くの人に伝え残し給え又結ばれし縁故の中間市と月形町の末永き友好を弥栄に見守り給え【八剱神社宮司 佐野正稔、同神社禰宜 佐野正靖】。

◎除幕式挨拶:今後は、この碑を中心に「月形潔」を語り継ぎいつまでも潔の名の輝きが益々増していきますように願ってます【委員長田中 榮子】
明治の時代に北の大地で活躍した月形潔は世界遺産「遠賀川ポンプ室」同様中間市の誇りです。功績を後世まで語り継いでいかなければならない。この除幕式がその第1歩です。【中間市長 松下 俊男】。
月形町は明治14年樺戸集治監開庁とともに誕生し今年で135年になります。(135年目にして郷里に月形潔生誕の碑が建立され、中間市と月形町の新たな友好の第1歩を記しました。)偉人の縁が結んだ中間市と月形町の末長い友好を祈念します。【月形町長 櫻庭 誠二】。
【月形潔 生誕記念の碑 完成式典パンフレットより抜粋】

◎新聞記事取材での発言;月形潔はまだまだ知られていない。どんな人だったか知らせていかないと消えていく。像に命を吹き込むのはこれから【作者 桟 比呂子、朝日 北九版2016年6月27日より抜粋】
 
参考・引用図書:、『評伝月形潔』」(桟 比呂子、海鳥社)と『疑惑』(松本清張、文芸文庫)、月形潔生誕記念之碑完成式典パンフレット。
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技術こそ施設の力、と教え且つ戦う現場指揮官にエールを [名リーダーを思う]

始めに

前稿で技術こそ施設の力と頑張る各級指揮官の姿を感じた旨を書いた。これは2施設群だけのことではなく施設科の全部隊指揮官が共通して持っている姿・・・と普段から思ってきた。今までの部隊訪問の中で心をうたれた2人の例を紹介したい。

第15施設中隊・S3佐

H28.2.某日訪問した際感動的な話を聞いた。沖縄では重機を使う(腕を磨く)演習場整備等の場に恵まれないので昨年春から方面隊が第5施設団に命じる日出生台演習場定期整備(春・秋の2回)に加えて欲しい旨旅団司令部を通じお願いし、認められた。旅団長にも視察をお願いした。理解を深められた旅団長は各部隊長に施設を活用するよう指導された。そのせいもあって積極的に旅団隊区内の駐屯地等の整備を担任した。これらの場を活用して各種の建設機械特に油圧ショベルの操作手を多数育成した。

昨年秋の大規模演習では大規模な兵站施設を多数構築せよ、との任務が付与された。所要や可能性を検討したところとても間に合わないので意見具申をした。所命を果たすため民間のユンボを数台リースして昼夜兼行で作業したい、と。認められ、所命達成の真剣勝負をさせて貰った。部隊一丸となった得難い経験をした。又教え且つ戦ってこの場を拓いたがこの場もまた更なる教え且つ戦う何よりの場となった。

この時多数の油圧ショベル操作手を自前で育成していたことが役立った。寧ろその自信があったので前向きに対処できた。部隊指揮官が普段から技術力こそ施設の力と信じて教え且つ戦う姿勢を堅持し、自主的に取り組む(地道に力を蓄える)事で強い部隊が出来る。いかなる任務が与えられても所命を必遂する部隊となる。その例証ではないか、と思った。


第12施設大隊・F2佐

12旅団創立記念日(H28.4.,9)でF2佐が彼の信念から発した言葉がとても印象的であった。第12旅団は唯一の空中機動部隊である。施設としては災害派遣等に際し重機等を沢山携行できない。又一つの現場に投入する建設機械操作手は限られざるを得ない。現場ではその特性に応じた民間の建設機械の操作が求められる事もあるだろう。従って当大隊で特技「建設機械操縦(中級)』を有する者は大隊保有のあらゆる建設機械について精通する事を求めている。

現場で求められるニーズに対しあれは出来るがこれはできないでは済まない。求められるニーズ(任務)はその場にいる者が必ず果たす、が追求すべき第1義である。そのためには一人で何役もこなさなければならない。当大隊として特技「建設機械操縦(中級)」に相応しい実力とは如何にあるべきか[?]提起し追求している。

以上を聞いて、ここにも技術こそ施設の力と自己の信念を燃やす指揮官がいると心強く思った。


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国連アフリカ施設部隊早期展開プロジェクト派遣教官団帰国歓迎行事に思う [名リーダーを思う]

始めに

本年5月から国際平和維持支援センター(ケニア―・ナイロビ)に派遣されていた教官団が8月5日帰国した。それに伴う歓迎行事が同日陸上自衛隊飯塚駐屯地で行われた。その行事に参加した私は教官団長以下14名(施設学校及びCRFから参加の3名は既に解散)の元気な姿や言動に感じるところが多かった。それらを思いつくまま書きたい。

1つ、全員無事で任務を完全に遂行

ケニア軍工兵31名に対し重機の操作を教育し全員所定の練度に到達させた。その後ある想定の下でのインフラ整備の要領を体験させ、応用能力を高めると共に自衛隊としても事後の教育の資を得た。以上を慣れない過酷な環境下に適応しつつ完全に遂行し全員無事故で帰国した。


2つ、心を伝えた

充実した教育でケニアの人たちも晴れて国際協力の仲間入りが出来ると喜んでいる事であろう。特に出発前に作業の要点やコツをわかりやすく書きだした資料を準備し英語に翻訳して学科教育終了の時点で配付。被教育者は術科の際に、それを活用して要点やコツを反復していた、と聞いた。真心や熱意はケニアの人達の心に届き何時までも生き続け、明日の日本とケニア交流の標灯になると信じる。


3つ、家族の支援あってこそ

誰よりも無事を願っておられた御家族、その場に参加されていた、も元気な姿を見て安堵されていた。それが一番のお土産だと思った。その頑張りのお土産は家族の支えがあったからである。私には2施設群全体で地道に家族との一体化を進めて来た取り組みの成果が結実したように思えた。


4つ、普段着の国際協力活動

昭和41年飯塚駐屯地が開設されたころは部隊が外国に派遣されるなどは想像もできなかった。平成5年に初めてカンボジアPKOが派遣された。この時の取り組みは大変なものであった。それを思うと隔世の感がする。2施群は何度もpkoを経験してきたが今回は少し趣が違うように感じた。陸自を挙げて、というよりは2施設群の出番だ前へ、で2施設群は主に要員を編成しトランク一つで普段着で出かけた、という感じ。その普段着は陸上自衛隊の進化の歩みであり、新たなページを拓いた第1号としての意味合いを強く感じる。



5つ、飯塚駐屯地創設50年の確かな歩みの象徴

2施設群が行った普段着のPKO第1号に加えて2施設群が作った飯塚駐屯地、ホーク班・中隊・西山等の訓練場で2高団は腕を練り、今や南西防衛の決勝職種といっても過言ではない。以上の二つは飯塚駐屯地開設50年の確かな歩みを象徴している感じである。

6つ、2施設群へのエール


前記普段着の中には国際的に通用する実力の持ち主(建設機械操作の優技者等)を多数群内に抱えている意も含めている。各級指揮官を核心として技術こそ施設の力、と技術を弛まず磨きぬいてきた賜物である。

2施設群は片や国際協力、片や南西防衛等全国で二つとない部隊である。その一員としての誇りと自信を持って今回の貴重な経験を今後に活かして頂きたい。

又整列した群全員の人的勢力が随分寂しくなった、と感じる。度重なる部隊再編の影響であろう。このような情勢をものともせず時代や国家の要求に応えて、「使命」を拡いてきた施設魂、没我支援やパイオニア魂に心からの敬意を捧げたい。反面、現場の足腰を弱らせて今と明日はない。現場の細りに、これでよいのだろうかと自問する。

以上

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