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高倉 健さんを悼むーちょっと心残りがありますが頂いた宝物は大事にします。 [名リーダーを思う]

始めに

健さんが逝った。多くの人が思い出を語っている。健さんから貰った手紙等を後生大事にして、訪れてくれるのを心待ちにしていた人が登場している。私もそんな埋もれた一人。

健さんに手紙を書き、返事を貰った事はブログ『福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて「【よろく】陸上自衛隊幹部候補生学校における福島大尉遺品寄贈式に思うー高倉健さんの手紙」』で書いた。その中で健さんの「役に魂を込め、好きになる」が私の心に強く響いた。私はてっきり俳優としての心構え、と理解していた。しかし、それが皮相な理解に過ぎなかった事を思い知った。NHKスペシャル高倉健という生き方~心の軌跡」(26年11月23日21時~)がその事を教えてくれた。

魂を込め、好きになる、は健さんが自分の人生に向き合う言葉であった
東映を退社し、網走番外地シリーズを終わりにして、新境地を拓くその最初の作品が「八甲田山」であった。手紙の中で「八甲田山」は3年間185日の撮影の結晶でした。と簡潔に語っている。しかし、今読み返すと、その行間から背水の陣で自らの退路を断った覚悟の様が浮かび上がってくる。同スペシャルで3年間他の仕事を一切やらず、勿論コマーシャルもやらず、無収入の為、:ベンツを手放し、別荘を手放した、と語っているのだ。

自分を変える為の自分に向き合う不退転の覚悟の上に「魂を込め、好きになる」があったのだ。だから健さんは文化勲章受章まで突き抜けた。やくざ俳優だった私がこのよう章を戴けるなんて、日本人で良かった、と健さんは語った。映画を「思いを伝える新しいジャンル」と信じて、自分を進化させ続け、不器用だけど愚直に生きる役を演じ切り、多くの人に思いを伝え続けた健さんには文化勲章が相応しい。

ちょっと心残りがあります
健さんから返事を戴いて、秘かに思ったことがあった。健さんに何時か陸上自衛隊幹部候補生学校に来て貰って資料館の福島大尉コーナーを見て欲しい、107年間いつか陽の目を、の思いで資料を保存し続けた遺族・親族の思いを汲み取って欲しい。幹部候補生と語り合って欲しい。ブログを書きながらそれらの思いを抱き続けて来た。しかし今やそれは望みえない、のがちょっと心残りである。

終わりに
私には2つの宝物が出来た。健さんから頂いた返事が一つ。もう一つは同校への遺品寄贈式前夜、集まられた遺族の方々に健さんの手紙を披露した際に広がった深い安堵の思い、である。この宝物の喜びを何時までもこの胸に刻し、感謝の言葉を捧げて、私のお別れの言葉としたい。

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御嶽山噴火、に伴う第12旅団の災害派遣に思う [名リーダーを思う]

始めに

表記は、第12旅団らしさがいかんなく発揮された災害派遣であった。第12旅団は日本で唯一の空中機動に適した編成・装備となっている部隊である。しかもヘリは旅団長の指揮下にあるので常に即断・即応の態勢が取れている。その事を11月20日相馬ヶ原駐とん地を訪ねた私は強く再認識した。その最たるものであるヘリの用法について、その点に絞って、私の感じるところを述べたい。

噴火及び災害派遣の概要

9月27日、午前11時53分頃御嶽山が噴火し、多くの登山者が山頂付近に取り残された。長野県知事から要請を受けた第12旅団は当初、第13連隊を基幹とする地上部隊と12ヘリ隊を中心とする空中部隊を派遣し、偵察・救助に当たった。10月1日からは地上から徒歩で進入する部隊とヘリで空中機動する警察・消防と部隊の一部の2正面から捜索救助活動を行った。10月16日午後6時15分に長野県知事の撤収要請を受け、終了した。


9月27日午後5時、安部総理大臣のTVでの発言

安倍晋三首相は27日午後5時前、「報告を受けた。負傷者がいる。なお200名近くが下山中ということだ。詳細は確認中だ」と記者団に語った。その上で、「私からは被災者の救助、登山者の安全確保に全力を尽くすよう指示した。私から自衛隊の派遣を指示したところだ。この後、関係閣僚会議を開く予定だ」と述べた。

安部総理大臣「自衛隊の派遣を指示」の発言に、一瞬「?」の疑問をいだいた。しかしよく考えると、「負傷者がいる。なお200名近くが下山中」等の報告が挙がっていた、という事であり、疑問を挟む余地はない。寧ろそれから先の疑問だった。報告された情報の中に、機を失せず飛び偵察した12へり隊の映像伝送情報も何らかの形で入っていたのではないか。噴火・噴石の3076mの山上での飛行は勇気がいる。エンジン不調や、噴火・噴煙で視界が遮られ稜線に激突、噴石直撃等の危険が一杯だ。自衛官、へりパイロットの使命感は単に遥か上空から撮影情報を送って済す程希薄ではなく、練度は高い。きっと低高度で、避難者や怪我して動けない方たちの様子を可能な限り撮影する等一定の信頼を与える何かがあり、総理発言の裏付けとなった、に違いない。

そうでなくても、各種の危険にひるまず、即座に飛ぶ精神は尊く、リアルな第一報の価値は高い。ねばならないの使命感と安全追求のギリギリのせめぎ合いを両立させた精強第12旅団の真姿があったに違いない。

翌日(28日)、自衛隊へりが7名救助、意識アリ

翌朝から7名を自衛隊へりが救出、全員意識があった。その陰に未明、暗さも加わる困難さ、にもかかわらず偵察ヘリを飛ばし、救助を待つ人を探したネバならない意識、身を挺して任務を果たす使命感と命ぜられた事をとことん果たす、危険を言い訳にしないしかし安全は必ず守るへりパイロット達の強い意志と優れた操縦技術がある。

これは救助を待つ人が振るLEDの灯りや懐中電灯の灯りを見つけ、その位置を確認し、救助用のヘリへバトンタッチした連携行動となる。無情にもガスの為、地上からの進入は無理と13連隊の待機が続いている中での苦渋の決断となった。

そしてそのヘリでの救出は火山ガス濃度、風向きや時刻に応じ刻々と変化する、の間断を縫わざるを得ないので、ヘリによるホイスト救出が主体とならざるを得ない。その困難さ・危険さは前述の、3076mの山上で噴火・噴煙の中、希薄な空気・くるくる変わる風向き・視界の困難・エンジンの灰吸引等で墜落や不時着の恐怖がいや増す、偵察よりも遥かに厳しい極限状況であったろう。

この局面にこそ、精強第12旅団の真姿がある、と確信する。ヘリ運用しかない状況、旅団長の決断とそれを実行面で技術的に支えたヘリ隊長以下パイロット達の実行力に一国民として敬意を表したい。

自衛隊撤収

10月16日長野県知事は降雪のため継続困難と捜索終了を発表した。それに先立ち残された家族の方々はヘリで上空から現地を視察し翌春までの別れを告げると共に心の整理をつけた。きっと残された家族の方々は目の下の噴火口が今、火を噴いたらこのヘリはひとたまりもない、と思い自衛隊が恐怖と戦いながら任務を果たしている、その思いを共感したに違いない、と思った。その気持ちが、ヘリから降りて、多くの方が「もう十分やって頂いた。迷惑をお掛けしました、」との発言に込められている、と感じた。ここにも自衛隊の真摯さが国民の心を掴む有様がある。

終わりに

発災直後から翌日の救出に関わる第12旅団の動きは空中機動旅団ならではの”らしさ”に溢れている。発災直後は危険の全体像が掴めず、誰も手が出せない状況であった。その中で、状況解明の為、真っ先にへり偵察を行った”らしさ”。一夜明けて生存者救出が緊急に求められる局面では、ガスの為地上行動は制約され、ヘリ救出しかない状況となった。そのヘリ救出の厳しさは前述の通り。それらの厳しい局面で敢然と決断し行動した”らしさ”。山頂付近で救助を待つ人、けが人も多い、を一刻も早く救出しなければならない緊急性とこの時機では自衛隊しかその対処力が無い非代替性もあった。この時の判断や行動の冴えに”らしさ”を感じる。

以上
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奄美大島における陸上自衛隊の訓練展開に思う [名リーダーを思う]

奄美大島全島での訓練に思う
11月16日朝、奄美空港にタラップから降り立った私の目に飛び込んできたのは空港の滑走路脇に 駐機中のCH-47X4機、外では数十台の自衛隊のトラックに天幕。いずれも整然と並んでいる。

ついで58号線を古仁屋港に向い車を走らせた。瀬戸内町に入ったところから幟が目につきだした。歓迎陸海空自衛隊御一行様 瀬戸内町商工会、と読める。

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統合演習(鎮西演習)、陸上自衛隊に関しては、自らが持つ演習場以外で始めてとなる南西防衛の現地《生地》演習、の歓迎であろう。古仁屋港につくと,、水陸両用車や浮橋車を連ねた門橋の大島海峡(瀬戸内)の湾内航行訓練。団長の指導する中隊訓練も行われていた。近づいて車両の部隊標識を見ると、第5施設団(福岡県小郡市)とある。

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その後、奄美市に引き返す途中、節子に部隊が展開している事を知り、寄って見た。そこでは第2施設群(飯塚市)が最終処分場跡地を集結地として、指揮所構築をテーマに中隊の訓練検閲(検閲官:群長)を行い、終了後の整備を行っていた。荒れていた?処分場跡地が見事に整備されきれいな広場に生まれ変わっていた。集結地の天幕やたたずまいも整然としていた。

以上3つの場面で2つの感想を持った。1つ、初めて展開する土地で民間のフェリ船ーや漁船に混じっての航行訓練や訓練指導及び生活地域の中で自衛隊の真剣勝負、検閲が行われている光景は感動的であった。この訓練は抑止力向上につながり、必ずいざの場合の担保、安心となる。奄美大島での訓練を企画した関係当局者と地元各自治体の場所提供の英断に敬意を表したい。

2つ、静かで穏やかな地元の歓迎ぶり。反対のビラひとつない、街宣の騒がしさもない。多くの児童が自衛隊の車に手を振り元気な声で挨拶してくれ、折から秋季キャンプ中のDeNAの中畑監督の敬礼のプレゼントまであったそうだ。自衛隊は粛々と訓練に励んでいる。静けさの中に精強さを滲ませている。この静かさや穏やかさはどこから来るのであろうか。

部外土木工事に思う
翌17日、前述の疑問を考えながら車を走らせていた私は部外土木工事の標識を見つけた。4年前の豪雨被害の復旧もかねた現地訓練目的の整備工事である。龍郷町長が申し出、西部方面総監が受託し、第5施設団・第2施設群・365坑道中隊が工事を担当している。

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生憎の休養日で現場には隊員が3名ほど残り器材監視に任じていた。その隊員に断り現場を見せていただいた。現場は土砂崩壊が道路を覆い10m下の河原に堆積している。作業も難しそうだ。足場が狭く、のり方崩壊や転落の危険も多そうだ。工期は11月10日~来年2月28日。最新の注意が要る現場である。

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その後整備隊本部(同町体育館)に隊長の岸2尉を訪ねた。折よく中隊長にもお会い出来た。隊長は「作業を無事故で立派に仕上げたい。それだけではなく、規律正しく士気旺盛な、自衛隊の真姿をご理解頂けるよう頑張ります。」と力強く語って頂いた。家族を遠く福岡県飯塚市付近に残しての長期滞在で、龍郷町の為、陸上自衛隊の為、絆つくりの為、奮闘する【整備隊】の上に”無事と所命必成及び家族の安泰”あれと祈る。

終わりに
以前、部外土木工事は町の発展の礎つくりと自衛隊の建設技術を磨く訓練の場としてのニーズが合致し、各地で行われ、施設科部隊が新しい時代を拓く役割を担ってきた。近年、自治体のニーズが減った事が原因で、部外土木工事の受託は行われていない。しかし、今回のここ奄美大島での部外土木工事は新しい何か、の予感がする。その予感が何かはわからない。

昭和48年に龍郷町で部外工事が行われた。そのことを覚えている町の人も多いという。当時の作業隊と地元の方々の絆が今に生きている。前述の静かな穏やかな歓迎につながった、と思えてならない。更に絆を強める、中興の実が挙がるよう願ってやまない。

以上
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第五十五回記念書燈社展会場で、山保 櫻華さんの”書”の”道”、その転機を思う [名リーダーを思う]

始めに

11月12日午後、たまたま東京に居合わせた私は東筑高校59期(同期)の皆さんに誘われ表記催し(東京都美術館)に足を運んだ。書には関心もない、門外漢の私ではあったが、山保さんの展覧会や年賀状等に接する内、一目で本人の書とわかるようになっていた。いつも同じ書でありながら飽きない。しかも墨の濃淡、字の大小や余白の使い方の巧みさに華(はな)?というか魅力というか、を感じていた、ので・・・。

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会場の作品の前に立つと無鑑査・自作の大作が持つ貫禄みたいなものが私に迫って来た。ここに至るまで、どのような歩みを辿ったのか、を知りたくなり、聞かせて頂いた。その中で私の心に響いた事特に転機にどう向き合ったかを私の感想や想像を交え書きたい。(書道界について無知であり、聞き間違いや早とちり或いは見当違い等がある場合はお許し頂きたい。)

最初の転機ー偶然恩師に再会、師事

書を始めたのは26歳。子育てが一段落しご夫君から何か一生身に着くものを持て、と諭され、始めた趣味の中の一つが書であった。爾来地元(八王子)の先生に習い、気が付いたら書だけが残った。18年過ぎ、その先生が亡くなられた頃、出身高校の同窓会で偶然1年生当時のクラスの担任であった松尾先生(書道の先生、担任された年の6月、教師を退職され東京に出て書家になっておられた)にお会いした。この奇縁で、師事する事となった。松尾先生はどうせやるなら本気でやれと厳しく指導され、性根が座った。自宅(八王子)から先生の自宅(大田区雪谷)迄、月に7回通い、書いては直され、直されては又書くという緊張漬けのサイクルを数年続けた。我ながら良く続いた、主人や家族の協力のお蔭と振り返る。

二度目の転機ー後輩に追い越され発奮

昭和63年頃、ある展覧会の受賞で後から始めた後輩に先を越された。悔しさで止める事も頭をよぎったが、何が足りないかを冷静に自問した。その結果、お手本にとらわれて自分の殻を破りきれていない、のではないか、との確信めいたものが湧いてきた。展覧会用のお手本は先生に書いて頂いたものを使用するのではなく、その展覧会に相応しい題材を、冷や汗を流しながらも、自分で選び、工夫したい。勇気を持って、自分を信じる事で殻を破りたい。生意気と思われるかもしれないが自分がやらなければ誰もやってはくれない。以降必ず出来るという自信と永久に芽が出ないかもしれないという不安の入り混じった日が始まった。

始めて、創玄書道展で特選を頂く日が来た。遂に殻を破ったのだ、先生始め多くの方への感謝の心は言うまでもないが、その中でも自分の力でやらなければならない事を見逃さなかった・・・。自分を信じて頑張った甲斐があった。今この作品はイタリアトヨタ本社のロビーに掛かっており、日本の書道文化紹介の一翼を担っている。

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三度目の転機ー推薦者の励ましを受け、干支書展に挑戦

平成14年(60歳の時)のバレイ書会100人展(午年生まれの年男・女の方で主催者の推薦がある人に参加資格)に主催者から出品を打診された。錚々たる先生方ばかりでとても自分には無理とお断りをした。しかし、推薦して頂いた先生から『山保さん貴女の書が好きなんです。出しなさい』と励まされ、挑戦を決意した。何処かで自分の書を認めてくれている人が居る、という気づきとこの挑戦(経験)で得た自信は、書を続けてきた自分の大きな財産であり、更に続ける気力の源となった。

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四度目の転機ー地域貢献へのスタート

山保さんは今、八王子桜花会の主宰者である。平成20年から80人の生徒さんのお世話をしている。生涯学習講座開設に伴い講師を引き受け、年1回のコース、8回生まで毎年担当したが予算縮小の煽りを受け廃止となった。その卒業生のフォローである。小学校の校長先生を定年退職後地域に貢献する生き方をしたお父さんと同じように、これから先の人生を中央ではなく地元で歩みたい、という思いを実践している。

終わりに

山保さんの”書”の”道”、その転機に向き合う姿から成長と貢献のキーワード、大事にしている価値観が見えてくる。12年後、次の午年はどのような山保さん?私も健康で見届けたい・・・。

以上。
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南スーダン第4次隊・隊長に聞く [名リーダーを思う]

始めに
10月29日表記隊長であった梅本2佐を異動先の南恵庭駐屯地に訪ねた。昨年12月16日第5次隊に任務を引き継ぎ帰国して10ヶ月、当時の心境をどうしても直接聞きたかった。面談の中で湧き出してきた2つの思いを質問にした。1つは最も印象に残っている部下3名の名前と理由。2つは指揮転移(16日零時)1時間後に起こった部族間闘争、それと分かったのは朝の9時頃、それまでの間指揮官として何を思いどう行動したか。

最も印象に残っている部下3名について

全員が同志であり印象深いが代表的な者、という意味で答える、との断りの後、3名の名が挙がった。多くの部外来訪者の接遇に当たり、特に外国人特有の習慣などを弁え、おもてなしに気を配ってくれたH1尉。後方運用、特に5次隊到着に伴う宿舎の増設所要等を次々と発生する問題を克服して間に合せてくれたE2尉。広報、特に現地に溶け込む天性のキャラクターを持ち、女性特有の目線と巧みなカメラ・ビデオの撮影・編集技量を発揮したA2尉。いずれも、4次隊そして日本を自分が背負っているとの固い自覚を持ち、任務をどこまでも前向きに、創意工夫して立派に果たした隊員達。代表としてその名を挙げるに相応しい、と思う。と同時に敢えて代表と表現したところに全員が誇らしい隊員達である、との意を感じる。

指揮転移(16日零時)1時間後に起こった部族間闘争、それと分かったのは朝の9時頃、それまでの間指揮官として何を思いどう行動したかについて

2時頃、国連から部族間闘争のクーデターの可能性が強いとの情報が齎され、5次隊長のアナウンスで全員居室で待機が命ぜられ、隊員は不安動揺することなく落ち着いていた。自分は銃声の距離、規模と方向を自分の耳と目で確認するに務めた。銃声はかなり激しく遠くで聞こえ近づいては来ない。その位置・方向は駐屯地・ジュバ市の北側であったがラジオ放送【英語】は5時にジュバ市の南側と伝えたので放送局は北側の情報は掴んでいない。広域で組織的な戦闘即ちクーデターが行なわれていると判断した。

7時、南スーダン政府軍戦車部隊が駐屯地の東側に進出展開して射撃し、北側に突進していった。ラジオ放送はジュバ中心部で爆発があった、と伝えたが、戦車の射撃音と爆破音の違いが分かってないと判断し、自分の判断が正いと伝え隊員を落ち着かせた。

9時か10時ごろ国連から正式に部族間闘争のクーデターとの連絡があり、我々がターゲットではない、戦闘に巻き込まれないよう気を引き締めた。

その判断の根源は若い時の経験にあった

この間、小隊長時代、敵陣前地雷原の偵察訓練中に敵の発する射撃の状況でその地雷原が大規模組織的か局所地雷原かの判断をした経験を思い出し、じっと耳を澄ました。するとジュバ市周辺の銃声が全域で且組織的である事に気づいた。若い頃身についた銃声で敵の配備を判断する経験が役立った。そして施設科隊員として爆破音と戦車射撃夫々の本物を知っているー軍事常識がラジオ放送に惑わされない冷静さを齎してくれた。
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