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『月形 潔』生誕の碑(中間市中底井野公民館)に思うー冠名”月形”が使われ続けたわけ [名リーダーを思う]

始めに

『鹿の子百合の花便りにひかれて(2016-07-05 13:09:21)』で中間市中底井野公民館にある月形潔生誕の碑を確認したことは述べた。以降、『評伝月形潔』」(桟 比呂子、海鳥社)と『疑惑』(松本清張、文芸文庫)を取り寄せ、用務の傍ら読んだ。漸くイメージを描くことが出来た。この間抱き続けた疑問は何故樺戸集治監開設前の明治14年6月、その関係者しかいない、村というには程遠い原野であった時に「開拓大書記官調所 広丈名の布達」で冠された”月形”が村から町の名として冠され続けたか?刑務所という負のイメージとリンクさせたまま、今年て135年目を迎えたか?であった。その答を読後感として書きたい。

学んで新しい世の中(日本)をつくる志

月形家は代々福岡藩に儒学者として仕えた。潔は父健の長男。健は深蔵の4男。深蔵は月形本家5代当主。健は天保14年5月、上底井野村の大庄屋有吉長平の招きで福岡から中底井野村に移り住み漢学と書道を教える私塾「迎旭堂」を開いた。潔はここで生まれ育ち、父は勿論家系に繋がる”師”から「学び」の薫陶を受けた。幕末から明治にかけての動乱の時に、月形潔の祖父深蔵、叔父洗蔵(本家6代当主)は筑前勤王党の中心人物として思想行動両面で活躍。勤王倒幕運動を行う。国家いかにあるべきか、黒田藩は如何にあるべきかを説き、藩論が二つに分かれ揺らぐ中、己の主義を貫き刑をうけた。深蔵は牢居、洗蔵は斬首。潔は叔父たちの云う通りの世の中になった。その礎となった叔父たちの志を受け継ぎ学んだ事を活かして新しい世の中(日本の国)つくりをしようと誓う。

須倍都(しべつ)に一目ぼれ、監獄作りだけに終わらない本気の村つくりと北海道開発

西南の役始め士族の反乱等の重大犯罪者や自由民権運動等の政治犯が急増し、全国で3番目の監獄を北海道に作ることなった。内務省監獄局御用掛を命ぜられた(明治12年11月5日)潔は候補用地の現地調査を伊藤博文から命ぜられ随員と共に現地を歩く(明治13年4月17日~6月)。開拓使が提示した3候補の内、潔は須倍都(しべつ)に一目ぼれし、帰着後報告書を提出。意見書が認められ監獄作りを命ぜられた。用地造成・建設完了(明治14年8月)。村名を上申し月形と決まる(明治14年6月)。監獄開設(14年9月3日)、月形は初代典獄を命ぜられた。

監獄新設に当たっての国の方針は囚人の隔離、周辺地域の開発、定住促進の3つ。これを潔は監獄行政の狭い視野にとらわれず須倍都(しべつ)を核とした北海道開拓という篤い思いをもって取り組む。

須倍都(しべつ)は囚人の隔離上、石狩川と樺戸山脈に挟まれた最適地である。須倍都(しべつ)に農業を起こし石狩川の舟運、当別との生活道路などを整備すれ監獄運営にとどまらず地域は北海道第一の地とならん。遠からずして人やモノが集まる地となるは予め期すべきなり、この地を措いて他にまた良地あるを知らん(以上は『評伝月形潔』」(桟 比呂子、海鳥社)中の「北海道回覧記」(後述)から適宜抜粋)。潔は人生でやるべき、将に天命とでもいうべき事に出会った。

今は悉く原野であるが、その開拓は囚人を使役して行う。積雪時に木材を伐採搬出、雪解け後に開墾、農業を起こして自給自足すると共に石狩川の舟運、当別との生活道路造成などのインフラ整備を推進する。収容施設もまだないすべてはこれから始まる時に、収容施設さえない時に、認可を得て囚人を受け入れ使役した。官舎もまだないので潔はじめ集治監勤務者は囚人と共に寝起きして伐採開墾を行った。勤務者の官舎を併設し、監獄運営のための業者等の活動の便宜を与え、刑期を終えた囚人を含め希望する者には開墾した土地を与える等の定住を促進する。

潔は囚人について懲戒の目的だけではなく教化・更生を旨として接しなければならない。その手段としての開墾や農業生産は極めて役立つ。刑期を終えた囚人で希望する者には開墾した土地を与え身に着けた農業力で定住を促進すれば生きがいを与えその目的を達すると共に地域や国家のためにもなる、と説き続けた。


志を同じくし潔に同化した最も近い人々

当初の調査から監獄の増設・運営に潔と共に携わった人々がいる。海賀直常以下の7名である。潔と志を同じくし、潔に感化され想像を超える寒さや不便、次々に現れる課題克服等の困難及び喜びを共にした。海賀直常らは村名を”月形”と上申する。潔は「月形死すとも月形残る」と喜んだ。後に発起人として頌徳碑建立(後述)の労を竭す。彼らの月形への心からの信頼(傾倒)や月形と共にの誇りが時を経ても月形の志を伝え続けた源であり、月形の冠名が生き続けた源である。

ぶれない信念で現場を改善

明治18年7月27日非職被仰付て8月⒛日辞職、月形村・北海道を去る。後を追いかけるように翌19年4月2日免本官辞令(懲戒免職、以上山県内務卿名)を命ぜられた。理由書によれば稟議を経す専断処行し遂に収拾すへからさるに至る其怠慢不注意事に害あり。よって規律を遵守せず国に損害を与えたとある。

指摘事実のうち、事実関係の推察が容易な2つを例に挙げると、『17年度本監経費金5449円」を以て官舎24戸を新築したる事』」『本監吏員の醵金を以て会議所を新設し遂に其目的を達する能わず。1929円余の官費支給を仰ぐに至る事』がある。

官舎については開庁時142人が3年後には219人に増加しており、る中央の官舎の手当てが追いついていなかった事が十分推察される。会議所もしかりであろう。現場の困窮を踏まえ、責任者として緊急避難的な処置を行った、と推察できる。責められるべきは山県内務卿ではないかというのが率直な感想である。

結果的に中央は手当をせざるを得ず、潔が狙った事は出来た。自分のメンツや進退と引き換えに集治監施設やその運営並びに囚人の待遇改善及び月形村のインフラ整備などが捗った、とも言えよう。現場重視の徹底、その貢献は計り知れない。これを知った人は冠名”月形”に何の疑問も持たないであろう。


辞めさせたい理由が他にあったと思いたくなる。例えば囚人は懲戒目的で扱わなければならない、囚人は苦役としての道路構築に使役せよ等の方針転換がなされる動きがあった。しかも山県内務卿の主導で・・・。これに異論を唱えるように潔は内務卿宛てに北海道開拓意見書を提出する(17年12月頃)。その他にも監獄の運営などで意見書や伺いを頻発し、自己の信念を貫いた。中央から見れば現地の事は裁量で上手くやれとの風潮が蔓延していたのかもしれない。潔の信念がそれだけぶれなかった、といえる。

余談であるが辞めさせたかった理由は未だある。熊坂長庵のことである。潔は藤田組贋札事件を取り調べたが判決はおざなりであり、厳しく調べなければならないとの意見を持っていた。又贋札は極めて精巧であり熊坂が犯人というのは解せないことであった。長州と薩摩の派閥争いが根底にあり、長州閥の山県からみれば排除したい相手であった。私見である。



今に残る意見書等が伝える篤い思い

北海道現地調査において4月21日函館に上陸して6月5日函館に戻るまでの見聞を纏めた「北海道回覧記」(報告書、樺戸博物館蔵)から須倍都(しべつ)に一目ぼれの様子、気分の高揚が感じ取れる。

明治18年春潔は集治監の今後の目的を明確にした意見書(建白書、樺戸博物館蔵)を山県内務卿宛てに提出した。その中で、「(囚人を懲戒主義で扱う方針転換に反論して)単に検束の一点のみに偏り監獄則に拘って事業の改良をしないのは目的に向かってないのではないか」と疑問を呈し「北海道集治監の目的は開拓殖民に在る(以下略)」と主張している。

他にも寒さは囚人も同じという主旨の多くの伺い書などが現存する。これらから樺戸集治監の運営と北海道第一の都会となすべき月形村と北海道の発展がセットになった潔の思いが強く伝わってくる。時を経てこれらを目にする人は月形の冠名がもっともな事を了知するであろう。

典獄を辞した後も月形の心を伝え続ける人々

頌徳碑建立(明治34年1月)の中心人物鴻春倪等は開村功労を讃え、撰文で月形潔は監獄用地を須倍都(しべつ)に決め、集治監建設・開設、月形村開村発展の功労者である、と述べ、開拓使は君の労を多とし月形村と命名す、と記している。

月形町は樺戸博物館を建設し、樺戸集治監の追悼式を行ってきた。月形町発展の礎となった集治監等の関係者や囚人達の労を労ると共に思い半ばで斃れた人々の霊を慰めつつ、中心人物である月形潔の心を伝えて来た。月形町の桜庭町長は潔の生誕地である中間市の田中榮子氏に月形町観光典獄(大使)を委嘱し中間市との交流を図って来た。「向こうで大事にされている。生まれ故郷でほったらかしにしておけない」と田中榮子氏は動いた。同氏の働きかけを受け中底井野自治会の総会(H27.3)で「月形潔生誕記念の碑」建設委員会(会長:田中榮子)を立ち上げ募金等に取り組み建立(H28.6,28)に到った。

終わりにーこれからに向かって

花菖蒲のご縁で月瀬八幡宮を訪れ、宮司さんから除幕式の話を聞いた。そこから月形潔について思いを巡らした。何故?を自分に問うと、宮司さんの「月形潔の功績を伝え残し給え」、が私の心のどこかに作用したから、のような気がする。

疑問にはそれなりの答を見つけた。監獄と村と北海道の開発についての一体としたビジョンを持ち、官吏の枠にとらわれない広い視野と篤い思いで一隅から千里を照らした人であった。冠名”月形”(村(町))は至極自然である。月形潔は残念ながら故郷では知られていない。関係者のこれからへの発言等を紹介してこれからを考えるヒントにしたい。


◎除幕式神事祝詞:北海道開拓の先駆者としての筆舌に尽くしがたい困難を囚人と共に切り開いた功績を多くの人に伝え残し給え又結ばれし縁故の中間市と月形町の末永き友好を弥栄に見守り給え【八剱神社宮司 佐野正稔、同神社禰宜 佐野正靖】。

◎除幕式挨拶:今後は、この碑を中心に「月形潔」を語り継ぎいつまでも潔の名の輝きが益々増していきますように願ってます【委員長田中 榮子】
明治の時代に北の大地で活躍した月形潔は世界遺産「遠賀川ポンプ室」同様中間市の誇りです。功績を後世まで語り継いでいかなければならない。この除幕式がその第1歩です。【中間市長 松下 俊男】。
月形町は明治14年樺戸集治監開庁とともに誕生し今年で135年になります。(135年目にして郷里に月形潔生誕の碑が建立され、中間市と月形町の新たな友好の第1歩を記しました。)偉人の縁が結んだ中間市と月形町の末長い友好を祈念します。【月形町長 櫻庭 誠二】。
【月形潔 生誕記念の碑 完成式典パンフレットより抜粋】

◎新聞記事取材での発言;月形潔はまだまだ知られていない。どんな人だったか知らせていかないと消えていく。像に命を吹き込むのはこれから【作者 桟 比呂子、朝日 北九版2016年6月27日より抜粋】
 
参考・引用図書:、『評伝月形潔』」(桟 比呂子、海鳥社)と『疑惑』(松本清張、文芸文庫)、月形潔生誕記念之碑完成式典パンフレット。
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