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ある集いに思うその3藤見会 [名リーダーを思う]

始めに
 表記会(H30.4.20、月瀬八幡宮(福岡県中間市)に参加した。東筑59期生が20年近く続けてきた恒例行事である。宮司の佐野君(59期)や奥様のご厚意に甘えて境内奥庭の藤の花、それからつつじを見ながら広間をお借りしての宴を楽しんでいる。ことしの藤は好天に恵まれ、見頃で大いに盛り上がった。

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1つ、藤見会でのこと

1つ目、長続きする三役
 冒頭の会長挨拶で会長木村君が(会長の)なり手が無くて続けているが30年になると切り出した。そういえば、59期生が東筑高等学校同窓会の当番期になったのが昭和63年、その前年の同窓会で58期からタスキを受け継ぎ、活動を開始した。副会長はあっちゃん(女性)、幹事は三好伸介君(愛称はしんちゃん)であった。今に到るもこの三人の顔触れは変わらない。絶妙の組み合わせとそれが醸し出す空気感はならではのものである。

2つ目、「拓く 福島泰蔵大尉正伝」の紹介
 表記紹介の時間を頂いた。固い話でいかがなものか、と思ったが楽しさや問題識を伝えたくて、表記出版後今に到った心境として4つのことを語った。1つ、感想で最も多かった、何故15年も追い続けたかについて僕自身もわからない、のでその答えを探索中。2つ、武人福島大尉について書いたが、武人についての関心が薄れている、と感じる。本物の武人とは、を自衛官は勿論多くの人に知って貰いたい。3つ、本書で触れた(福島大尉の)地に足の着いた使命感について深堀したい。旧軍に学ぶべき一番大きなテーマであるような気がしてきた。4つ、我らの先輩高倉健さんが何故文化勲章を貰ったのか、観客の目線で考えたい。このテーマは面白い、例えば「羆嵐」(小説吉村昭、ラジオ番組脚本倉本聰)。もう少し新境地のあぶり出しをしてブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」に纏め編(仮称)を設け、投稿予定。

2つ、59期会報全10号(平成14年~平成24年、1回発行/年)を手にして
 宴の中で三好君から表記会報を揃えている。欲しいものは寸志を添えて申し出よ、との連絡があった。今頃??三好君の思い入れの強さを感じ、紙面で見落とした?何かを感じ取りたい、と手を挙げた。後日わざわざ届けて頂いた。記憶に無かった私自身の関わりについても、藤棚の下や還暦記念の献納の際に(川道君が)写っている写真もあったばい、と添えられていた。併せて(川道君)の記事も2つあったばい、一つには花菖蒲の写真が載っとったばい、と言い添えられて。


1つ目、59期会活動でオアシスの絆を強く
 会報創刊号(平成14年7月1日)で木村会長は59期会のことを「我々の集いが”老後のオアシス”となるよう絆を強くしていきたいものですね」と述べている。であるからしてさりげなく会長の補佐や裏方を仕切るしんちゃんは”オアシス守り人”である。余談だが三好君は今も九州トースイの社長だそうで、30年その職にあり続けている由。人間力や仕事力さもありなん、と思う。

2つ目、藤見会の始まりと今への転機
 本題に入る前に舞台となった藤見会について59期会報から拾ってみたい。中間北中学校長等を歴任し、皆の世話役も進んで引き受けていた故奥村良子(年没)さんの発案で藤見会が小人数で始まったらしい。創刊号には「中間市の田園調布」というタイトルで月瀬八幡宮の宮司佐野君が神域を護る心がけと共に同期交歓(オアシス)の舞台として立ち寄って欲しい、との思いを吐露している。それに添えられた写真は藤棚の下で美女5人。初期藤見会の原型が確認できた。そのうち還暦を記念して59期生一同で月瀬八幡宮に牛の置石(当初は午歳に因み馬の奉納を考えたが天神様との関連で牛になった由。)を贈ろうという話になり会報創刊号で有志を募り翌年奉納に到った。会報第2号(平成15年5月20日)で献納行事と経過(像の写真付き)、藤見会に合わせて行ったこと、が掲載されている。

3つ目、事務局便りにみる会報への思い入れ
 先ずは事務局便りに載せていることを拾ってみたい。
三好君が中間北中学校の校長室に奥村さんを訪ねたおり、奥村さんが学校新聞を作っているのを見て、ふと思いつきで同級生新聞があったら良かろうな、と話したところ「それいいねーやろやろ」と大乗り気、とんとんと今回の発行となった。回を重ねることに不安に思いながら恐る恐る発行した【創刊号】。会報作りその他にも経費が必要なので事務局で話し合って同期生会費1000円徴集することにした【第2号(平成15年5月20日)】。奥村さんがなくなって手間取り、原稿依頼と発行が遅れた。そのことのお詫び【第5号(平成18年9月1日)】。会費納入者全員に原稿依頼の用紙を送付したところ20通を越える原稿が届き、紙面は一挙に6ページの拡大版に。従来は毎号2ページ。創刊当時10号までは続けようと故奥村さんと話していたが次回が最終号との予告【第5号(平成18年9月1日)】。奥村さんが亡くなり途方に暮れていた時、仰木三知子さんの助けでどうにか約束の最終号発行まで到ることが出来た。原稿がなかなか集まらずいろいろ工夫した。やり切った満足感等の回顧【最終号(第10号)(平成24年10月1日)】。
 
 平成20年某月、第6号(平成20年7月)の原稿用紙が送られてきた。三好君から電話も頂いた。茫洋とした言い回しで断ろうかと思ったが、しんちゃんの頼みだから書こうか、という気になった。その気になると我ながら面白いテーマが浮かび楽しく書けた。平成24年某月はみーこから電話で第10号で最後だから書け、書くことがあるやろうと言われ、その気になり、健さんの返事のことを書いた。我ながら福島旅のエポック文であると感じた。今回私は最終号(第10号)の三好君の回顧を見て原稿を集める計り知れない気苦労と奥村さんが亡くなって途方に暮れていたこと並びに三知子さんの助け舟で救われたことを思い知った。そして今回の59期会報(全)の提供での心遣いの深さにも初めて思いが及んだ。

 私は三好君の茫洋さに惑わされ、内心の切羽詰まった思いや気遣いに気づかなかった。茫洋さの裏に前向きならばこその苦悩や緻密な気遣いがある。良いと思うことは先ずやってみる人。しんちゃんが言うならやろうという人が周りに集まり、いつの間にかことを成し(約束を実行し)てしまう人。同じ方向を向く人や一緒に行動した人に苦悩を見せずに気遣い、そのことを記憶のポケットに大切に終ってくれる人。59期会のオアシスの守人が実に相応しい人である。


 終りに
 59期の旅行(毎年及び記念旅行(還暦並びに卒業50周年))や名簿の作成等の事業も活発で、オアシス守り人としての役目を十二分に果たしてこられた。もうじきマイファームの花菖蒲が見ごろを迎える。花見がてらしんちゃんの記憶のポケットの中の味わい深い話にも花を咲かせたいもの、である。尚寸志は受け取って貰っていない。これを以て寸志と受け取って貰えたら有難いが・・・。
 
以上

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。

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水陸機動団創立記念日に思う

始めに
 表記記念日(平成30年4月28日、団長は青木 伸一陸将補)にご案内頂き、参加した。ブログ「相浦駐屯地観藤会に思うー藤が取り持つ水陸両用団(仮称)新編への思い」(晴耕雨書、2014-04-28 15:10)で思ったことをこの目で見届けねば、青木団長始め新編なった水陸機動団の雄姿拝見と心躍らせて馳せ参じた。

新編水陸機動団をこの目で見て 
 快晴無風絶好の日和で多くの見学者が押し掛けていた。私は案内の0900佐世保駅前発のシャトルバスに乗る予定で余裕をもって乗り場に向かったが、すでに200名位並んでおり、後続者も詰め掛けている状況であった。結局40分後に出発のバスに乗車し駐屯地に向かった。関心と期待の高さを実感した。
 
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 式はすでに始まっていた。式場に整然と並んだ部隊の威容、2本の連隊旗と部隊の後方の水陸機動車がひときわ目立って、水陸機動団が成った、と実感できた。団長の訓示の中の「全国から馳せ参じた他人の幸せを自分の幸せと思えることに誇りを持つ者達」という言葉に思わず感じ入ってしまった。ここに向かって発揮された関係者の先見性や熱情に敬意を抱くと共にこれからが正念場、と感じた。初代を託された智将青木団長の名采配で日本中から集まった精鋭ならばこその問題意識や改善意見が見事に、これからに、結実されるよう心から祈りたい。

よろく
 どうしても記念日で会いたい人がいた。IM氏である。ことしの年賀状で「①1月2日で80歳、身体の手入れ怠らず新鮮な魚を食しそれなりの運動。②絵画教室7回生となり、ものをしっかり、見ることが重要なことを学んだ。③相浦駐屯地OB会長9年目、水陸機動団創設のためOB会が新たに立ち上がる態勢の構築が必要。」と記してあった。いつものことながら前向きな生き方に感服した。又他日「拓く 福島泰蔵正伝」の読後感を寄せて頂いた。それには「人間愛を見た。理由は云々」とあり、幹候校の「福島大尉資料」活用と合わせ「拓く」を紹介した、とあった。有難い思いで一杯になった。私はIM氏が施設学校幹部上級課程学生であった時の課程主任教官であった。IM氏に会う楽しさは格別。

更なるよろく
 懇親会食場で小川清史氏(前西部方面総監、現明治安田生命保険相互会社 業務部統括顧問)にお会いした。同氏は冊子「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」(1・2・3)を幹部学校に寄贈した際の学校長で幹部学生教育の重要性について篤く語られた。その折に立見師団長の不覚の思いを気付かされ、「拓く」の大きな柱とすることが出来た。その節のお礼を申し述べ、出版後に到った新境地として「地に足の着いた使命感」を深堀していると申し上げたところ、同氏は「自分の体や家族が傷ついたら痛みを感じるだろう。部隊や国家に対しても自分のこととして痛みを感じられるようになることが大事であり、自分はそう教育した」と述べられた。「痛みを感じる」は私がもやもやしていたところを鋭く突くキーワードであった。又貴重なご指導を頂き、望外の更なるよろくを得た。感謝!

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。

追記
 MI氏から頂いた名刺の裏に素敵な絵が載っていた。尋ねたところ、料亭「花一」(佐世保市船越)から九十九島の夕景を平成28年8月20日に描いた。ラストサムライのファーストシーンであり、最もお気に入りの記念の一枚だそうである。撮影のスキルが絵に追いついてないので見苦しいところはお許し下さい。
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第4師団中隊長等集合訓練における講話に思う

はじめに

 表記中隊長等集合訓練が第4師団(師団長高田 祐一陸将)で計画され、その一環としての部外講話の講師を私でお役にたてるなら喜んで、と務めさせて頂いた(H30.4.4)。陸上自衛隊は3月末を以て創隊以来の大改革が漸く成った。その背景の安全保障環境は厳しさを増し、安全保障制度整備に伴う新しい役割も増大する。その第一線を担う第4師団においてはその滑り出しと第4師団の今年度隊務の開始に当たり、各連隊等の中核指揮官である中隊長等69名の意識・識能向上も不可欠と判断され、師団長以下より真摯な態度で、より大きな決意をもって遂行するべく計画されたもの、と理解して、私はその資となる素材を提供すべく表題を「福島泰蔵大尉の使命観と統率」として臨んだ。そのため着意したことや講話を通じて思ったことなどを書きたい。本講話は「拓く 福島泰蔵正伝」(著者川道亮介、文芸社)に拠った。

1つ、講話の肝

 福島大尉の「3つの心」を本講話の肝として、どのようなものか、どのように身に着けたのか、発現されたのかを話した。私は使命感の考え方や取り組み方を使命観と捉えている。

1つ目、己が為すべきと信じることを断行する心
 生来自分の考えを主張する福島青年は己が為すべきと信じることを断行する心を傾向として持っていた。挫折・窮途に悩んだ福島青年は覚悟を持って入隊し陸軍少尉に任官と共に志(次項)や使命を深く突き詰めて、私心を捨て、義といえるほどに純粋な心の持ち主になった。日清戦争で劣弱な冬季戦備で兵が護られていない悲惨な体験をしてその心(使命感)は地に足の着いたものになった。日露戦必至の時に雪国に駐屯する弘前第31連隊の中隊長に上番し、その使命を冬季戦備を明らかにし兵を護るのが自分の先天的な義務であると分析し、後れを取っている冬季戦・行動の研究調査、その一環としての実験行軍等及び露軍始め外国軍の戦史・典令などの研究を始めた。特に露軍研究は任官以来の学ぶから並び・越えるレベルへと深化した。使命感を行動に移す際には未明でも誰が何と言おうと前へでる、自己の発意を命ぜられて任務として行うなどをならではのものとした。

2つ目、志した武人(もののふ)の心
 福島大尉は兵制とそれに基づく武人(臣)や軍旗の起源を文武の制度が整った奈良時代に置いていた。その時代は唐風に倣い大宝律令を定め、2回目の遣唐使派遣に際して倭国ではなく日本国と伝えさせ、冊封を明確に拒絶し、大唐の脅威を感じつつも誇り高き「日本」の始まりであった。福島大尉は自分のことをもののふと称したがその心は「顧みずの心」であった。陸軍軍人として野外要務令綱領にある「死生を顧みず本分を尽くす」は大伴家持が万葉集で詠った「海行かば・・・(略)顧みはせじ」に連綿と続くもののふの心ととらえていた。大伴家持は建国以来大王のおそばに仕え、奈良時代も天皇の臣下であり続けた大伴氏の「氏」長という立場にあり、万葉集の編纂者であった。同時代の聖武天皇は陸奥国の砂金生産を祝いこれで東大寺大仏が成ると喜ばれ臣下の各「氏」に詔を賜われた。大伴氏に対しては建国以来仕えてくれた心を尊まれ、変わらぬ忠心を励まされた。この時大伴家持は任地富山にあったが、御心にお応えして前記歌を詠んだ。
 自衛隊員は任官に際し、服務の宣誓をする。その中で「(略)ことに臨んでは危険を顧みず身を以て責務の完遂につとめもって国民の負託に応えること」を誓う。「危険を顧みず」の心を雲仙普賢岳災害派遣や東日本大震災等の派遣活動において献身や勇気として示してきた。そのことで今や国民の90%が自衛隊は必要と認めるまでに至った。福島大尉を学ぶことは福島大尉を通じてもののふの心を学ぶことである。そこにこの誓いが自衛隊員(自衛官)だけに国家から求められている、ということを加味すると、「顧みずの心」は連綿と続く武人(臣)の心、もののふの心の象徴である、と言っても差し支えない。

3つ目、訓練・研究等で常に心掛けた予想外を喜ぶ心
 陸軍野外要務令綱領冒頭には「百時皆戦闘を基準とすべし」とある。福島大尉はこの綱領の体現を一生涯かけて励んだ。その筆頭が予想外を喜ぶ心である。福島大尉は戦場で経験していない未知に出会わないよう平素から予想外の未知に出会う、厳しい場を求め訓練や研究調査を行った。このため悪天候などを願ってもないと喜び、今出来ること以上のものを求めようとしない姿勢を厳に戒めた。

2つ、3つの心が齎したもの
 その代表例として立見師団長の不覚の思いから浮かびあがった「共動」を上げた。八甲田山雪中行軍では前人未到の厳しさで非常の困難を究めながらも一人も倒れなかった。黒溝台会戦の決戦で福島大尉戦死後に遺志を継いで黒溝台を一番乗りを果たした。隊員一人一人が役割をわきまえて受け身ではなく自分のやるべきことを尽くしたからであり、そこには福島大尉の3つの心の共有・感化があった。

3つ、3つの心の今、についての私見
 素材、福島大尉を語り終えて以下の3つの私見に気づき、整理した。私なりに本講話の意義を理解出来た気がした。
 1つ目について、福島大尉が中隊長として部下に責任を持ち、透徹した使命観をもって国や陸軍に尽くす心の尊さは今も不変である 
 2つ目について、福島大尉の武人、もののふとしての顧みずの心は志や覚悟の面において今の服務の宣誓の顧みずの心に繋がるものがある。
 3つ目について、福島大尉の考え方は有事に備え練度向上を只管追求する自衛隊の心構えとして今に通じるものがある。

4つ、思ったこと
 講話の中で、福島大尉の強い覚悟の背景に入隊前の3度の挫折や窮途の切ない思いがあったことに触れた折にある思いが湧きだし始めた。私は45年前、中隊長に上番して1年たった頃、大きな事故が連続し、各方面に多大な迷惑をおかけした。隊員にも申し訳なく自分も落ちこんだ。100人の部下を持つ中隊長の重さに向き合う覚悟や努力不足があった。中隊長にさほど緊張感や覚悟を持たずに上番し、前任者の貯金を自分の力と錯覚して、目の前の業務に忙殺され心ここにあらずのつけが出てしまった。事故が連続し呆然自失状態に陥って初めて自分の偏った「為すべき」つまり「3つの心」がけの弱さや覚悟の無さや親身の指導不足等々を思い知らされた。「3つの心」を究め、(立見師団長が福島大尉を称した)「塾者」として中隊、100人の上に立つ、(ように努力する)というあるべき姿に照らしなんと未熟であったことか。そういう状況になってもついてきてくれた隊員のお陰で覚悟を決めて、自分の「為すべき」を尽くし、立て直すことが出来た。「心におくれをとっていた。このままで終われない」と気持ちを新たにしたこと及び支えてくれた隊員と見守ってくれた自衛隊への感謝の気持ちを忘れたことはない。

終りに
 各中隊長等の受講される態度や目の輝きにはその職を如何に遂行するか、に全精力を注入している様子が溢れていた。そこに触発されて私も篤くなった。各中隊長等の職遂行上の関心や思いがどの辺にあるか、については忖度することなく頂いた時間、90分間を福島大尉を語ることだけに集中した。とにかく福島大尉の真実や魅力を伝えたい一心で・・・。
 各中隊長等には素材、福島大尉の生き様から適宜取捨選択する共に想像力や創造力を働かせ、これからの未知に備えて、危険を顧みず身をもって職務の完遂につとめ国民の負託にますます応えて頂きたい。
(終り)
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「拓く」読後感に輝きを感じる人達その6-制服を作務衣に着替え「利他の菩提心」をNPOに籠める男 [名リーダーを思う]

始めに

 平成30年2月28日、土井義尚兄と昼食を挟んで4時間という長時間の懇談、福岡空港で帰京の便を待つ間、の機会を持った。以前からゆっくり話を聞きたいと思っていたが土井兄が「拓く 福島泰蔵正伝」を読んでくれたことから意見交換をという話になった。お互いの相手に対する最大関心は
僕(川道)は「自衛官退官後の誰にもまねできない生き様を貫くもの。」
土井兄は「川道さんの福島泰蔵調査エネルギーの源はどこから出てくるのか。(中略) 執筆間の過程での その精力的な 取材活動の継続を可能にしたものは何だったのか。」でした。ものすごく楽しい瞬く間に過ぎ去った時間を共有した。

 土井兄は防衛大(9期、昭和40年3月卒)出身、私と同期生である。幹部候補生学校・武器部隊勤務を経てスエーデン駐在武官・第7後方支援連隊長・武器学校長などを歴任し初代陸上自衛隊補給統制本部長(陸将)で退官。その後永平寺(曹洞宗本山)で1年2ケ月修行をし僧侶となり、乞われて小松製作所顧問に就任、その後特定非営利活動法人「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」を立ち上げ(初代理事長)、軌道にのせたと見るや新たな特定非営利活動法人「四端会」を立ち上げ(理事長)、合計10年を節目として男は脱皮すべきとの持論に基づき父祖から受け継いだ高成山自性院住職として新たな奉公の道(NPO)を模索している。退官後のユニークな生き方に驚きと敬服の至りであるが、土井兄の退官後のボランテア活動を貫くものは何か、に思いを巡らせた。
 ある日、仏壇に向かい、私も曹洞宗なので本宗の教義書「修証義」を手にして、発願利生の章中の「自未得度先渡他」の「菩提心」に思い当たるところがあった。「自未得度先渡他」の「菩提心」とは自分の利を後にして他者の利を先にする「利他」の悟りを拓く心である。この解釈にはこの悟りに到るために未知である「利」への道を拓くことや(人が嫌がる)より困難な「利」への道を進むことも含む、であろう。貫くものは「利他」の悟りを拓く「菩提心」と思い至った。

1つ、「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」の活動  
 
1つ目、概要
 
 会は世界各地の紛争跡地にある地雷・不発弾処理に直接かかわる、専門技能を有する元自衛官を主要メンバーとして構成される、国内では唯一地雷処理業務等を実施するNGOである。2001年9月から任意団体として設立、地雷処理・不発弾処理を中心事業として活動を開始し、2002年5月に東京都からNPO法人に認定された。カンボジア不発弾処理活動は2002年7月1日から、ラオス不発弾処理活動は2006年2月28日から開始した。アフガニスタン地雷処理活動は2006年11月9日から開始し、2013年3月に終了した。2008年5月に国税庁長官から認定NPO法人の認定を受け、アンゴラ地雷処理活動は2009年4月20日から開始し、2015年4月に東京都から認定NPO法人の認定を受けた。(ホームページから抜粋)

2つ目、立ち上げ

 永平寺の修行を終え、小松顧問として働き始めた土井兄のもとへ、カンボジアでJICA職員として活動をしていた旧部下から、カンボジアのUNTAC終了後日本は一人残らず引き揚げてしまい、何もフォローが無い。外国軍はPKO終了後も残って目に見える形でのサポートをしているのに比べ肩身が狭い。地雷処理のNPOを作ってくれないか。一度見に来てくれとの、連絡が入った。翌年も連絡があり、現地調査(2001.12)に出向いた。その結果二つのことが分かった。1つはCMACというカンボジアの地雷処理組織の副長官から土井兄にコンタクトしてきて、カンボジアでのPKO活動(UNTAC)の高い評価が生き続けており日本のNPOを待望し、連携したがっている。2つは地雷の犠牲者は内戦が終了して避難民が故郷の部落に帰住し始めて5年から10年間がピークとなるが危険回避教育が徹底すると急減し、その後は一定の傾向を示す。これに比し不発弾の犠牲者はほぼ一定である。そして一定傾向にある地雷の犠牲者数と不発弾犠牲者数の比率は5分5分である。不発弾処理から手掛ければ何とかなりそうだとの感触をつかんだ。武器学校長経験者として地雷処理が出来る施設科の人脈には暗いが不発弾処理が出来る武器科の人脈には自信があった。尚且つ費用的にも不発弾処理活動費は1/10~1/20で済むので全くゼロから立ち上げることを考えるとまず必要最小限の不発弾処理チーム数(1ケ)でスタートとせざるを得なかった。この時点で立ちあげの主な課題が3つあった。①危険な国際貢献活動に踏み出すことを国民は支持するか、②元自衛官が国際貢献の表舞台に出ることに国民の抵抗はないのか③2年間の活動実績というNPO認定の要件をクリアする活動をしなければならないがその2年間の財政・人的基盤をどう築くか。①②について、土井兄は顔の見える支援をしなければ口や金だけでは国際貢献の実は挙がらないという信念があり。陸幕勤務、スエーデン駐在武官時代等に築いた防衛省や外務省人脈、前述CMAC及びUNTACを通じて築いた国内外の人脈をフルに活用して真の期待(必要性)を把握し、元自衛官という専門家でなければ初期の目的達成はできない、と確信して、設立趣意書に「日本においては自衛官経験者が中核のNGOが期待されながら、関係者はこの種の活動を控えてきました。それなりの理由がありました。し かし、今や、国際協力に関する日本国民の意識は、著しく変化し、自衛官経験者が中心となったNGOが設立されても、国の内外から誤解を招くこともなく、そ の真意が正しく理解される時期が到来したものと判断するに至りました。 日本人の誠意と真心を国際協力の現場で、お金や物のみでなく現地で働く人間の姿として表現したいものと決意した次第であります」と思いを記した。③について、土井兄は小松で貰う給料の半分はお布施をするという思いがあった。定年後に貪ることはないという達観と布施の修行、という思いであった。その布施する先がJMAS認可に向けての2年間の活動資金拠出になった。加えて多額の拠出や寄付を申し出てくれる同志及び現地活動をボランテアで行う同志に恵まれた。小松製作所の全役員にも会員として名を連ねて頂いた。土井兄は他人の拠出や寄付も布施の修行の一環として有難く頂くという認識である。

3つ目、拡充

 やがて土井兄は業務範囲についての定款を見直し、地雷・不発弾中心の業務から、領域の拡充を志向する。安定よりも組織の特異性を発揮し本来の使命を限りなく果たすという理念からであった。自衛官OBを主体とするので軍事的知見、危機管理の知識技能、経験を積んだシニア集団という特色を背景に「JMASしかできない活動はJMASの責任でもある」という方向性を明確に打ち出し、アフガニスタンでの地雷処理活動調査の段階で外務省からの委託を受け現地調査を行った武装解除(DDR)事業そのものをJMASが引き受け、国際監視団(IOG)の運営も引き受けて、他国に参加を呼び掛け、2004年3月~2005年7月DDRの実現に貢献し、”顔の見える国際平和協力”の一端を担い、日本の旗をしっかりと立てた。

 後に「オヤジたちの国際貢献(2)」(2006年11月11日、発行人理事長土井義尚)の「コラム16 敢えて冒した無謀」で上記について「JMASのアフガニスタンDDR受託はJMASの立場・権限・補償能力・自己活動資金等の能力から考えれば無謀に見えたし、覚悟の選択であった。しかし、(自衛官OBよりなる)JMASの能力、特に指揮統率力、計画実行力、野外行動力等々オペレーションを実行する総合力から考えれば十分に自信が持てる仕事であった。決して無謀とは考えられなかった。幸運に恵まれたことも間違いない。」と総括している。このコラムにこの種使命遂行に関する自衛官OBならではの自負や誇りや覚悟が滲み出ている。

4つ目、アンゴラでの事後への布石

 アンゴラでの地雷処理活動(現地事務所長)は理事長を辞し、一兵卒、途中で理事も辞めて、となって2009年4月赴任した。赴任予定者が連続の外国勤務を奥様に反対され急遽辞退したのでその代役に率先して就く、JMAS自体が軌道に乗ったので(組織の私物化を避け)後輩へ申し送る、10年という節目で脱皮すべきという持論からも退くという判断をした。

一兵卒となってアンゴラに渡った土井兄は3つの試みを行った。

1、アンゴラの人々との交流、地雷処理に止まらず、を行い、友好関係発展の楔を打ち込んだ。①畑を耕し種を播き、育て収穫する、自然による教育の、「農業心」支援、②塗り絵での絵心支援、③お遊戯支援、④サッカー(土井兄は防大ではサッカー部)。これらの中から特に農業心による自立の手ごたえは、帰国後の次のパフォーマンスの大きな財産になった。 
2、JMAS後のNPO構想の芽生え
 アンゴラ在住の中国人は20万人、対する日本人は39人。圧倒的なマンパワー差に思いは尖閣諸島等の国境(領土)や排他的経済水域の経済・漁業・海底資源の保全へと向かった。今一般の日本地図は離島を含め領土領海の関係位置や全体が一目でわかるようにはなっていない。日本国民の領土保全の意識を高めるような地図を作ろう、と思い立った。
3、根本善の追究
 アンゴラの人々の貧富の格差を肌で感じた。食べたくても食べれない、学びたくても学べない、病気になっても医療が受けられない、治安が悪くいつ命を落とすかわからない、安心して暮らせる環境がない人々にとっては先ず生きること、次いで生き抜くこと、最後は生き抜いて死ぬことが一番の価値であり、善である。この実感は帰国後の次のパフォーマンスの財産となった。

 私も刺激を受け根本善「生き抜いて死ぬ」を考えた。私は「人は生きたように死ぬ」や「終わりよければすべて良し」の言を信条としてきた。今まで頂いた命は自分なりに精一杯生きてきた、という思いはある。最期に良かったと肯定したり感謝できればいうことなしの人生だと思っている。

2つ、四端会の立ち上げ

 会を2013年02月26日設立した。その目的は「社会教育の推進を図る活動の一環として東西約3,400Km、南北約2,800Kmの日本領土についての学習・訪問等、四端八端運動を準備・提供し、その認識と意識の向上を促し、現在及び将来にわたり、不特定かつ多数の日本国民の利益の増進に寄与する)であった。

 特色は以下の3つ

1、年に1万部(経費100万円)作成し希望する学校などへ配布する。
2、要望を聞き地図作りに反映する。例えば県の旗を地図の周りに掲載し、郷土意識の醸成も図る。
3、自ら拠金し、企業や一般から寄付を募った。ここでも拠金はお布施という修行の認識は一貫している。
3つ、高成山自性院(山梨県甲府市高成町)住職を核とした地域貢献

 土井兄は地域貢献活動構想を練っている。問題意識は「急速に進む過疎化・高齢化で限界集落が崩壊し、個人は豊かさの中で根本善に向き合う真剣さや感謝の心が薄れ、老人・低レベル生活者・病者・受刑更生者等の社会的弱者を救うセイフテーネットは貧弱」というものである。これらの解決策としてアンゴラで掴んだ「農業による自立」を基本に「全村全花」運動や社会的弱者のセーフテーネット作りを目的とする企画を検討している。

終りに 
 
 土井兄は最後に「拓く」の良さを本当に理解できるのは自衛官(OB)だけであろう、との感想を述べた。その発言に二つの思いを感じた。一つは自身が自衛官OBならではの使命を遂行してきたという自負や誇りと相似るものを私の「拓く」に感じてくれた、という思い。二つは軍事常識が薄くなっている現状では自衛官経験者達の心が動かされた点について一般人に理解が及ぶのかな、という懸念の思い。しかし息遣い溢れる資料に忠実に書いた”これが福島大尉”だ、という迫力や私の熱情が一人でも多くの方に伝わって欲しい、と思っている。自衛官や同OBに限らず共感する方の輪が広がって欲しい、広く武人というものへの理解を深めるために、と思っている。

  今にして思うとほとんど私から土井兄への関心話ばかりで、私に対する関心「川道さんの福島泰蔵調査エネルギーの源は どこから出てくるのか。(中略) 執筆間の過程での その精力的な 取材活動の継続を可能にしたものは何だったのか。」には殆ど答える暇(いとま)がなかった。でも聞きたい・知りたい思いとそれを楽しむ心の丈、だんだん良くなる法華の太鼓ならぬ感応と共振の輪がどんどん広がる楽しさを味わう心は伝わった、と思う。それが彼の関心に応える今の私の答えかも知れない。

 聞き違いや理解力並びに筆力不足で土井兄の意図から外れるところが多々あるかもしれないがその節は分不相応な私の心響に響くところを書きたい、という強い思いに免じ、お許しを頂きたい。(終り)
 本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
  

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「拓く 福島泰蔵正伝」読後感に輝きを感じる人達その5続きー自衛隊で培った財産を今に活かす山口八郎氏 [名リーダーを思う]

続き
大共感=輝きの元

 いずれも銃剣道の事例が目立つが、ここに重なりというか大共感=輝きの元がある。陸曹昇任直後の教育(当時は陸曹候補生課程教育はなかった)で銃剣道と出会い、ほれ込んで練習し、見事1級に合格してから本務への精励に加え銃剣道の選手及び指導者として歩んだ。この間、今も実践陶冶の銘としているのは以下の「武道を学ぶ人としての心得について」である。「真剣勝負の場に立つ時を常に念頭に置いて、平常心が齎す無念無想の境地と生死を賭けるに相応しい崇高な心境で臨めるよう強靭な肉体、健全な道徳精神、優れた武道精神、熟達した剣技、格調高い人間形成に生涯研鑽練磨しなければならない。」(筆者要約)

 この「武道を学ぶ人としての心得」の真剣勝負の場に立つ時を常に念頭に置く「体現」の精神は福島大尉が任官以来百事戦闘を基準とする「野外要務令綱領」の「体現」に努めた精神が重なっていた。銃剣道に打ち込んだ本気や覚悟は大共感=輝きの元となったと思われる。

 
 山口八郎氏が今も活かしている財産

 山口八郎氏が自衛隊で培った財産として今でも実践していることが三つある。一つは銃剣道をとことん究めることである。技を向上し己を磨き、強い戦士や健全な自衛官を育成すると共に銃剣道連盟の活動を支え、退職後は若者への普及にも力点を置いている。二つは部隊の大小に関わらず「自分が口にしたことの責任は自分がとる。本気で向き合うことで人や事態が動く」という、指揮官として、人間としての本気や覚悟のモットーである。上からの命令・指示であっても自分が部下に命じた以上はすべて自分の責任である。こうあるべきと思ったことはやり通す。筋の通らんことは誰であっても退かない。具合が悪くなっても逃げずに前を向き、(誤りや失敗したら)私のせいです、すみません、と謝る。シンプルで明快な座右の銘である。三つは上司・同僚・部下との絆を大切にし、感謝を忘れない生き方を心掛けている。特に仲間や部下を思う上司への意見具申は篤い。

 以上の3つについて、自分の人生においてはじるところがない、お陰様で周りの人から山口にまかせておけば安心だと信頼を得ている、と自信を持って語っている。山口八郎氏は熟練の技能・知識を有する准・曹・士の最先任者としての地位を築き、退官後はその財産を磨き、活かし、恩返しを続けている。

銃剣道について

 今だ現役選手!自らの高見に到達したという銃剣道範士(H16.11.13)8段(S53.11.10)・短剣道範士(H28.12.17)8段(27.11.23)を受験し合格して、日々精進の意欲を燃やす。錬武館(館主田中武樹氏)の指導員として小・中・高校生に銃剣道を教え、高校生の国体出場を果たして、更なるすそ野広げに意欲を燃やす。佐賀県銃剣道連盟会長を辞し(H29.5.31)、名誉会長(H30.1.17)として、平成35年佐賀国体を円滑に主宰できる組織体制つくりをサポートする側に回っている。

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モットーの実践教育について

 銃剣道の指導を通じ、教え子や現役の自衛官、幹部・曹を問わず、に自らのモットーを噛み砕いて伝授している。福島大尉のような人が自衛隊にいてくれたら、との思いでそのモットーを教える一環として本書「拓く」を推奨して頂いている。大変光栄で且つ有難い思いで一杯である。

終りに
 
 最後に福岡県小石原村村民運動場及び生活改善センター用地造成工事(昭和45年7月8日~8月8日)を作業隊長(当時一等陸曹)として行った時の思い出に他とは違う味があるので記しておきたい。
 剣道4段の腕前と指揮・指導能力を見込み、村長・小石原中学校校長から課外に中学校剣道部の指導を依頼された。7月14日から30日まで毎日課外に指導したが同中学校は8月1日・2日の甘木市・朝倉郡の剣道大会で初めて優勝した。聞けば30年以上いつも1回戦で敗退していたとのことで村中お祝いで湧きたった。初めての隊長であったが工事の出来は勿論広報活動にまで目を配り成果を上げた。又上級部隊も承知しているはず(と思っていた)作業についてその上級部隊の検査で質問された。上司の命令であったがその上司の名を出さず、機転を利かした説明をし、了承された。その上司が報告していないということがぴんと来たが、自分は納得して命令をしたので口にした以上は自分の責任と覚悟を決めた。

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「拓く 福島泰蔵正伝」読後感に輝きを感じる人達その5ー自衛隊で培った財産を今に活かす山口八郎氏 [名リーダーを思う]

始めに

 山口八郎氏は「拓く 福島泰蔵大尉正伝」を読んで、福島大尉の為すべきと信じることの断行に自分の生き方「自分が口にしたことの責任は自分がとる。本気で向き合うことで人や事態が動く」を重ね、大共感したという。その大共感は私が感じる”輝き”そのものである。以下ブログ晴耕雨書「山口八郎氏の銃剣道に魅せられた人生を思う」と聞き語りなどにより大共感=輝きの様を語りたい。 

 山口八郎氏の体感

 大共感に関わる特徴的な体験として以下の5つを挙げたい。

①銃剣道合宿訓練での懇親会で、団本部の偉い幕僚から後方地域で建設作業を主にする当施設科部隊に銃剣道はいらない。普通科に任せておけばよい、と言われた。これに対し宴席ではあるが譲れないと思い、後方地域に敵の空挺降下があった場合、建設作業中の施設科部隊は携行する小火器で戦わねばならない。白兵戦となれば銃剣格闘である。よって銃剣道は必要と答えた。これを聞いていた団長が山口が正しい。山口の思うようにやらせろ、と裁定を下した。

②自分が教官として団の要員を集めた、団長から命ぜられた合宿訓練中に父が死亡し休暇帰省した。復帰後隊員が動揺していた。担当中隊の上級部隊長(群長)から全部隊(群)挙げての重要訓練(行軍)に参加するように厳命されたのが原因だった。団長から命ぜられた訓練であるにも関わらず了承を得ないで変更することはいかがなものか、全日本大会で勝つという目標に向かっての中断は許されない、と自分の直属上級部隊長(群長)であったが直談判し、撤回して貰った。

③某部外工事隊長の時、該市の体育館で事前に計画した銃剣道訓練を行わせていたところ某新聞紙上に見当違いの報道をされ、事情を知らず驚いた近傍部隊長から(迷惑だと)咎められた。命令権者の団長に状況説明を行うこととなり、的外れであること、部外工事の受託目的に照らし訓練目的に適っていること及び関係者の了解を得ていること等を説明した。了解して貰い件の部隊長も納得した。

 部外工事は自治体からの申し出を受け、訓練目的に適う場合に受託し、工事の特性に応じ作業隊を編成する。宿舎や工事用燃料等の提供を受け、泊まり込みで行う場合が多く、作業隊長は工事の円滑な進行と竣工のほかこの場を活用した教育訓練、地元との折衝や生活指導などすべてにおいて責任を持つ。このため経験を積ませる狙いで若手の幹部や特に工事や訓練や服務など万般に造詣の深いベテランの准曹が任命される。勿論山口八郎一曹(当時)は第5施設団でも有名な後者であった。

部外工事が出てきたところで施設科の本分である工事面の力量発揮の例を挙げたい。

④昭和36年9月18日、第6師団から方面総監部を通じ第2施設団(宮城県柴田郡柴田町船岡)に王城寺原演習場の滑走路を10月1日からの師団演習で使えるようにして欲しいと要請され、特に自分が命ぜられて偵察した。期日(9月30日)までに完成させるためには昼夜連続3交代の作業が必要と見積、2曹の自分が隊長で直ちに作業に取り掛かった。開始後特科連隊から師団演習に先立ち固定翼機による航空観測等の事前訓練をしたいという強い要望が直接あり、当初は歩み寄りの余地なしの状況であったが相手の本気が分かり何とかしようと、離発着に伴う3度の作業変更を予備(天候等による遅延想定)日の前倒しで吸収し両者満足の結果を得た。演習終了後この対応を高く評価した第6師団は方面総監部を通じ第2施設団長に通報し、団長から4級賞詞を受賞した。

⑤昭和53年7月から9月、南関町町民運動場造成工事の作業隊長(当時准尉)を命ぜられた。作業間に大雨で、すぐ下の国道の上流側の広い地域に50㎝程の水たまりと逸水が生じた。国道の下に埋められた排水溝(ヒューム管直径1m、長さ10m)の詰まりが原因であった。隊員から自衛隊の仕事ではないかもしれないがつまりを取りましょう、との意見具申があり、検討し着手した。先ず下流側から隊員がパンツ1枚で潜り込み手作業で土砂を掻き出した。進行状況を把握し、水漏れ(詰まった土砂が水圧で一挙に流下し隊員が巻き込まれる兆候)や怪我等の危害防止に最大の留意を払いつつ作業を進めた。8.5mほど進んだ時点で、上流側からの作業に切り替えた。今度は水に潜りながら、詰まった土砂に穴をあけ、少しずつ土砂水を流して穴を拡げ、貫通した。作業する隊員を危険物で傷つけないよう、隊員が水圧・土砂圧でヒューム管内に引き込まれないよう最大限の注意を払い無事この作業を終えた。後日引き渡し式で町長はこの作業を見ていた町役場の者が自衛隊がこんなに頑張っているのにこれで良いのかと実施中のストライキを中止し住民サービスに服した旨の自衛隊への感謝の思いを語った。私の関心が銃剣道に偏っていたきらいがあった。最後にこの話を聞いて私の胸に篤いものが込み上げてきた。

続く

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「拓く」読後感に輝きを感じる人達その4ー俳句と書で新境地を拓いた友 [名リーダーを思う]

始めに
 前稿の集いの際、輝きを感じた二人がいた。稿を改めてそのことを語りたい。

俳句で新境地を拓いたNH君
 
 話題は巡りNH君から貰った年賀状に及んだ。「初暦 まだ見ぬ日々の 佳かれかし」だ。昨年は「独り居の 三歳(みとせ)となりぬ 明けの春」であった。まず昨年の俳句。この年から年に一度の近況報告の添え書きは俳句一首に改めた由。彼の身上、奥さんに先立たれ、お義母さんも逝って三年過ぎ、勿論子供は独立して独居老人?の生活、という事情を知るがゆえに侘しさや寂しさの中で迎えた正月に精一杯ハレを込めているな、と受け止めた。ところが二回目となる今年の俳句は見事に澄み切った心境でハレを楽しみ明るく前へ、を詠っている。本人は俳句三昧の生活だから、としか言わないが、その詠んだ「句境」と言い、年に一度の近況報告として沢山の中からこの一句を選びだした「選境」と言い新境地だ、と感じた。会って話すことで素晴らしさが肌感覚で伝わって来た。

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書の道で新境地を拓いた山保 櫻華さん
 
 山保さんの近況にも話が及んで、その作品(写真)を見せて頂いた。昨年の書燈社展での、毎日書道展審査委員になって初めての出展作、縦6尺横8尺の大作である。すべての方に感謝の気持ちを伝えたくてこのテーマにした由。透かしに薄く”感謝”の2文字が浮かんでいる。この書から伝わってくることが二つある。一つは毎日書道展審査委員という思ってもみなかった”光栄”に至るまでには実に多くの方のご指導やお世話を頂いた。このことに対し、先ずは”感謝”からスタート、という気持ち。二つはこれからも自分らしく、お弟子さんと励まし合って書の道に精進し、期待に応え、恩返しをしたいとの決意である。簡単には踏み入れることが出来ない道に臨む新境地を拓いた、と感じた。

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第2施設群創立63周年記念行事、銃剣道競技会に思う [名リーダーを思う]

始めに

 表記行事(H30.3.21)に参加した。中隊対抗の団体戦、個人戦と行われた。次第に熱気や迫力に引き込まれ、現役の頃を思い出し、篤くなった。頼もしさとエールを贈りたい気持ちと次々にストーリーが湧く、最高に楽しい一日であった。その様を語りたい。

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お父さん凄い!

 団体戦はメンバーは7名または9名で大将は各中隊共に中隊長であった。私には苦い思い出が蘇った。群の大会で各中隊大将は「幹部」との規定で私がなった。ある中隊との戦いで、大将戦にもつれ込み、ものすごいプレッシャーの中敗れた。中隊員の声にならないため息を感じながらの退場に悔しさが倍増した。今回大将戦にもつれ込んだ試合、304坑道中隊対本部管理中隊、があり注目した。両者中隊の名誉を掛け善く戦い、本部管理中隊長S一尉が勝った。よく見ると観客の女性と幼子二人が無邪気に一生懸命応援し、勝利を喜んでいた。奥様が5人の子のうちの下の2人を引き連れ応援に駆け付けていたのだ。子供たちにとっては勝ち負けよりも堂々と敵と戦い自分と戦うお父さんが限りなく頼もしく誇らしく思えた、に違いない。
多分S一尉は「お父さん勝ったよ!応援のお陰だよ!」と心の中でつぶやいたに違いない。そして敗れたKI一尉に対し「少年工科学校の先輩に花を持たせてくれた」と思ったか、どうか?

 
意地でも全勝はさせない

 団体戦で全勝する人は何名か?に関心を持った。2ケ会場同時進行ではわかりにくいので大将に着目した。大将が全勝のまま最終試合を迎えた367中隊は304坑道中隊と対戦した。前述のkI一尉、いずれの場合も私からすれば脇焦点の人、が意地を見せKN一尉の全勝はならなかった。KN一尉は本館中隊長S一尉に勝っていた。3者の意地の張り合いを感じた。
団体戦での全勝者は6名(367中隊H士長・K士長・O3曹、368中隊K1曹、401中隊A士長・T3曹)であった。

鋭い剣を振るう人に注目
 
 いつの間に剣の鋭い、しなやかな選手数名をマークし始めた。もっと多いはずと思いながら同時並行の競技に目が追い付かなかった。勝ち上がった人も敗れ去った選手もいたが個人戦優勝(幹・曹の部)のk3曹は見込み通りで嬉しくなった。マークした数名及び団体戦全勝者を含め、全日本クラスの資質を更に磨き、第2施設群の名を全国に轟かせて欲しい。

幹部は個人戦に出場

 団体戦の大将以外に個人戦(幹・曹の部)に若手の幹部、出れるものは全員、が出場していた。実力者そろいの曹に交じっての戦いはきついものがある。しかしその爽やかさ・潔さは何より群のカンフル剤になったはず。そして真剣に戦うことで学び身に着くものも多く、きっと将来役立つ得難い経験になるであろう。任官したてのY3尉が準優勝した。陸曹時代のとことん突き詰めた銃剣道の”道”に誤りはなかった、努力は裏切らない。大したものと敬服した。

 紅一点

 本部管理中隊O2曹が女性自衛官ではただ一人出場しており、彼女の戦いに注目した。各試合善戦した。将来の女性活躍の方向性を示していることは間違いない。意欲と実力に敬服した。

栄誉を讃える

団体戦ー優勝367施設中隊。
個人戦ー幹・曹の部優勝k3曹・準優勝Y3尉、陸士の部優勝K士長・準優勝A士長

終りに
 
 銃剣道はスポーツであると同時に自衛官にとっては武の心、「顧みない」心を磨くに相応しい戦技である。第2施設群は「顧みない」心を発揮して昨夏の北九州豪雨災害や東日本大震災、南スーダン等のPKO活動で責務を完遂し国民の負託に応えてきた。この第2施設群が記念日行事で銃剣道競技会を行う意義は極めて大きいと感じた。私が「顧みない」心が武臣(もののふ)の心の象徴であることにたどり着いたのは15年余の福島泰蔵大尉研究【「拓く 福島泰蔵大尉正伝」上梓】の「感応と共振】のお陰である。

追記

 施設が銃剣道を行う意義に関連して付記したい。郷土部隊である旧陸軍第56師団のビルマ方面の作戦で玉砕したらもう(孟)・謄越・平戞3ケ守備隊を支える扇の要に位置した龍陵守備隊は逸出してくる敵大部隊を歩兵部隊も指揮し阻止し持ちこたえたがその指揮官は小室中佐、第56工兵連隊長であった。このことも今私の心に強く浮かんでいる。これは小郡駐屯地での講話を機に広報室からお借りした「魂は甦る」(土生甚吾著)からの感想である。この件については思うところがあり、稿を改めて書きたい。

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「拓く」読後感に輝きを感じる人達その3ー「第四木曜日の読書会」世話人、読書の達人浅井輝久先輩 [名リーダーを思う]

始めに

  表記読書会が100回を区切りとして閉会した。御案内を頂きこれは万難を排し行かねばと出席した私は深い感動を覚えた。その様を書きたい。

顛末

平成15年2月の第四木曜日に発足し、じらい2ヶ月に1回のペースで開催し、本年3月4日、区切りと思い定めたご本人の意向で、最後を迎えた。会設立の趣旨は「月に1冊本を読む。できなければ、読んだ人の感想を聞く、本の大好きな人の集まり」、世話人の浅井輝久先輩は防衛大卒、元第3師団長。会を重ねながら次第に充実した。読書会が人を呼び人が人と繋がって、幹部学校指揮幕僚課程の学生二個学年の「青」、現役の自衛官・民間有志の「壮」、OBの「老」という構成でしかも常時10数名程度という少人数で刺激しあう願ってもない形が出来上がった。

読書会の作法

 読書会には独特の作法があり、発表者は発表のほぼ2ケ月前迄にテーマ書(書名・著者・出版社・出版年・何刷)を連絡、テーマ書は自由。ほぼ1ケ月前迄に発表概要(500~600字の案内文)を作成。発表はレジメ(A4で3~4枚)により1時間以内。発表後ほぼ1時間程度の質疑と討論、その後席を移して懇親会。発表後概ね1週間を目途に例会録を纏める。例会録の構成は、①『そもそも、この本には何が書かれているか』が読んでいない人にもわかることを基本として整理(A4で2枚程度)。②読書会での議論の要約(世話人)。③『私の百字提言(発表者)』・『木曜人の百字箴言 (世話人)』からなる。
 世話人浅井先輩は会をデザインしその実現に関わる運営・進行等を行った。特に上記作法や発表者のフォローに関わること及び案内書の作成、読む余裕がない会員のためのテーマ書を要約した「粗読」の作成・配布、例会録を作成した。

第100回の様子

 14時から16時の間、テーマ書『LIfE SHIFT 100年時代の人生戦略』(リンダ・グラットン、アンドリュー・スコット著 池村千秋訳)を62期指揮幕僚課程学生山下敦史1尉が発表し、参加者(30名)が所見を述べた。必要性を強く認識し、世代間での受け止の差を始めとした多様な意見や学びについての声が多かった。続いて懇親会に移った。場内には読書会の余韻に浸った意見交換や歩みを懐かしみ閉会を惜しむ声が飛びかい浅井世話人の労苦への感謝の意が満ちていた。

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本好きをとことこん極めたあゆみから見えてくるもの
 
① 2ヶ月1回のペースで作法を守り、100回、15年余続けるということは生易しいことではない。私の少ない参加経験で世話人浅井先輩の仲間と共に読書を楽しみたいという強い思いとこれからの日本を托す有意の人材の修養を読書で手助けしたいという篤い志が伝わって来た。②発表者は世話人とのやり取りの中で読書の作法も学ぶ。特に発表者100名の半数(50名)を占めるCGS学生にとってこの場は読む・要約して書く・発表する・討論を纏める等の学びも含めて経験のすべてが無形の資産となったはずである。③この読書会から巣立った「青」の学生が将来とも読書による自己啓発を続け日本の中枢で活躍する。中には新しい読書会の種を蒔く人も出て来るかもしれない、この夢が実現の暁には世話人浅井先輩としては大本懐であろう。④100回積み上げた「例会録」等の読書作法の記録には読書離れが進む中、読書のノウハウと価値が詰まっている。事後への貴重な無形資産である。

読書の達人浅井先輩

 私は浅井先輩に読書の達人という呼び名を呈したい。今までいろいろ書いてきたように読書会にお誘いを受けこの機会を最大限活かし(人生最後に一冊の本の出版を前提に)これが福島大尉だ、の決め手を探そうと思った。浅井先輩からは読書会の作法を逸脱しそうになる私の方向性も理解して的確な示唆を頂いた。その懐の深さに安らぎさえ覚えた。発表9ヶ月後に本書「拓く」の原稿ができ出版社もOKとなり、原稿を見ていただいたところ編集者そこのけの厳しく暖かい指導(考え方)を頂いた。そして出来上がり、紹介文(偕行記事・平成29年11月号)を書いて頂いた。映画「八甲田山」の徳島大尉(福島大尉モデル)を魂を込めて演じた高倉健さんに私がなりきり「拓く」を書き、塾者福島大尉を蘇えらせたと評して頂いた。塾者とは立見師団長が不覚の思いで福島大尉を評したきわめて強い意を込めた褒め言葉である。立見師団長の不覚の回顧は本書「拓く」でもっとも私が力を込めたところである。そこをズバリ衝いた批評に私は感極まった。私は浅井先輩にこそ塾者が相応しいと思った。一連の出版に関わる薫陶からも迷いは全くなかった。ただ立見師団長が目下(めした)の福島大尉に使った「塾者」を私が浅井先輩に使うのは恐れ多い。なので達人と言わせて頂く。


本大好きを極めたその先
 
 「第四木曜日の読書会」という自ら担いだ荷物を下ろし、いよいよ人生の仕上げに掛かられる由。『締め切りのない原稿は書けない』という言葉もちらりと聞こえた。何をかは分からないがこの15年間は、回り道かもしれないが、きっと次なる作品の重みをいやますに違いない。願わくば最初の購入読者になりたい。それまでは元気で生きたい。有り難うございました。

尚本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。



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「拓く」読後感に輝きを感じる人達その2ーしんか(深化・進化)無限(と思われる)のフォットライフ道 [名リーダーを思う]

始めに

 前稿の太田征男君を囲む会でのこと。黒溝台会戦での28日の決戦時、総予備福島中隊が投入され愈々戦場に向かうという場面で、福島大尉は全員に訓示をした。その訓示についてKH君が凄いね、・・・と語った。その時、太田君は持参していた「拓く 福島泰蔵正伝」をバックから取り出し該頁を開き、読み始めた。宴たけなわであったが、全員が聞き入った。私もこのくだりになるといつもそうであるが、激情が込み上げてくる、その激情をおさえつつ聞き入った。最後の最後に投入される決戦予備としての大命を果たす、黒溝台一番乗りを果たすという使命・任務や部下に向き合うひたむきさ・篤さに私の心が震えてしまうからである。KH君と太田君の不意の連係プレーは震える心の共振という気がした。
 
 今回の輝きを感じる人はしんか(深化・進化)無限(と思われるぐらい) のフォットライフ道を只管(ひたすら)歩み続ける太田征男君である。
 
 私の関心 

 翌日、太田君が午後の東京へのフライト搭乗のため、ホテル出発前のひと時、北九州市内八幡西区のホテルロビーで話を聞く機会を持った。最近のデジブックの興趣が目覚ましくしんか(深化・進化)していると感じたのでそこを聞きたかった。ブログ「晴耕雨書」の「太田征男君のデジブック春のコンテスト入賞を思う」稿で取り上げたデジブック「春色のときめき」以降花は勿論風景・イベント・夜景・花火・イルミネーションと多彩に拡がり、花火は花火自身の美から造形の美、造形はより時間的空間的拡がりの美へと成長し続けている。拡がる中に常にはっとさせるものがある。75歳にしてこの輝き、しんか(深化・進化)させ続けているものは何かを知りたい。
  

ひたむきさ

 太田君は画趣が多彩に拡がった、・・・という私の問い掛けに対し、プロの先生についてしっかり学んだ、特にEOSの中島剛先生に2年間みっちり基礎を教えて頂いた。それが大きかった。それを土台としてプロの先生方に技を習い積み上げた。それと共に自分の関心ももっともっと、と拡がった、と経歴を辿りながら話してくれた。その経歴は以下の通り。

 EOS学園で平成10年7月から15年5月までの5年間、プロの技術を学んだ。中島剛先生からは基礎を2年間講座でみっち学んだ。並木隆先生の「花」と、工藤智道先生の「夜景」、いだよう先生の「ネイチャーフォット」などの講座を学んだ。16年5月以降、17年6月の間、山田久美夫先生の「ふわっとした花」、斎藤裕史先生の「アートな花火」、斎藤裕史先生の「花をふんわり撮ろう(ダリア・コスモス編)」、岩崎拓哉先生の「工場夜景」、斎藤裕史先生の「イルミネーション・花火」等の応用(特化したテーマ)講座を学んだ。

 参照:ホームページ:写楽の写真館(旧題:愉快な仲間と写真館)
(URL:http://members3.jcom.home.ne.jp/yukio-ota/)のプロフィール

以上を聞きながら基礎が身に着きレベルが上がればもっと身に着けたい、学びたい技が増える。身に着けば更なる境地を目指したくなるというスパイラルが出来る。その中でカメラと被写体と作品に向き合い、自分が腕を上げ、納得する写真を撮りたいと精進してきた。そのひたむきさが伝わってきた。そのひたむきさは先生や写友等との関わりを過ぎ去るにまかせるものからより強いもの即ち絆(後述)にした。

絆を思う気持ち
 
 経歴の語りの中で、絆を大切にし、絆を楽しんでいる太田君に気が付いた。沢山あるが以下の二つの話題からそこを説明したい。

 デジブック仲間のマドンナさん上京のお話

 マドンナさんが登場したところで、私は??と問いかけた。すると、お互いにリスペクトしあう関係だけどこの前大阪から上京してきた時(1月22日、大雪)、初めて会う機会を作り、丸の内界隈をプチ撮影会をした。マドンナさんの上京の本来の目的は劇団九州男の座長大川良太郎の夜の部の公演観劇にあった。 太田君はこれにも付き合い「大川良太郎は39歳の惚れ惚れする綺麗な役者でした。立ち役も女形も素敵でしたよ。」とのコメント。「雪が予想されていたので、ストロボを用意しておきました。お陰で、発光させていい雰囲気の雪景色の東京駅の写真が撮れました。彼女にもストロボを貸してやりましたが流石に良い写真が撮れていました。」とのコメントも。以下は太田君が同行撮影した写真
 
 00008914_1 (002)雪の東京駅縮小.jpg

00008916_1 (002)大川良太郎縮小.jpg 

 同好の仲間としての連帯感に加え謙虚に学び教え合い更に思いやりの気持ちも込める。思いやりは絆を強くし、その強い絆は太田君の喜びであった。 

 おふく会のお話

 サンウエーブ(現LIXIL)を定年後も嘱託として7年間務めた同社の新宿ショールームの当時のメンバーでおふく会(飲み会、会場はおふく(巣鴨、店主は東筑59期大田尾君))を毎年行っている、と嬉しそうに語るが実は真面目な努力が報われている面もある。新宿ショールームでは女性のコーディネーターと一緒にお客様に対応し、主に、現役の時の経験を活かして技術的なアドバイザーとしてお客様の質問に答えたり、コーディネーターを指導していた。そういった中で文字化して具体的に残そうと「キッチン豆知識」(およそ50~60回のシリーズ冊子)を作成し後輩が何時でも読んで勉強出来るようにした。内容的にはキッチンに使われている色んな材料の基礎知識やガスコンロ、IHヒータ、等々の仕組みなどの技術資料が中心であった。
 
 「キッチン豆知識」の作成には(経験不足の)コーデネーターがいつでも読め、読めばお客様対応を頼らずにできるようにという自分は控えめにして自発を促す太田君の思いやりが籠っている。年を経ても変わらぬ会社への帰属意識を仲間と共有し仲間を思いる。そこから強い絆が産まれ、その絆が太田君の喜びであった。それが良く表れているのが以下の控えめな太田君のコメント。
 「(サンウエーブの関係では)現在「技術開発OB会」の副会長をしています。そのOB会の時に現役のLIXIL新宿ショールームのコーディネーター(元サンウエーブ)に現状について話をしてもらっています。OBの年寄りにとっては若い女性が入ると嬉しくなるようで評判がとてもいいんです。これが出来たのも一緒の仲間だったからでしょうね。」


終りに

 太田君を輝かせているのはひたむきさと絆を思う気持ちであった。
 本稿冒頭でKH君の発言で太田君は本書を取り出し該頁を開き読み始めた、について。その時、同君には二つの思いがあった。一つは自分のひたむきさを福島大尉のそれに重ねる心。二つは本を持っていない、読んでいない参会者のことも思いやり全員で共有しようという絆を思う心。
 尚、この輝く人シリーズはブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」(http://fukushimagizan.blog.so-net.ne.jp/)にも投稿しています。 
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