So-net無料ブログ作成
前の10件 | -

花菖蒲ビッグデイ [マイファーム雑感]

始めに
 マイファームに女房殿が実家のお義母さん丹精の花や木を貰って来た。その中に花菖蒲もあった。平成19年であった。その美しさにはっとさせられたのが平成21年。丁度この頃毎日のウオーキングで道端に咲いている花や樹木の美しさに気づくようになった。今まで気にも留めなかった風景や花木の美しさに心が動き、自分の手で育ててみたい、と思うようになった。それは我が人生で初めて芽生えた花を愛でる心の余裕であった。
 この時、仕事の充実感は言うに及ばず福島大尉を調べマイファームで花野菜などの作物を育てる喜びに浸り、思い巡らしや書く手ごたえを掴んでいた。それぞれが独り立ちを始め、色々志向してきた自己開発願望が漸く絞られてきた、と思えた。所詮人間は一人、どこかの群れに安住することではなく、一人になっても(人に迷惑を掛けず)楽しく過ごしたい、そこにどうやったらたどり着けるか、という自衛官を終わった後の生き方の課題とその漠然とした苦しみ・不安に向き合って来た。そこから脱却できた、と感じられた心のエポックだった。これを境として日々楽しいと思えるようになった。

 ほんの数株からスタートした花菖蒲は株分けを繰り返し、今や畑の全周を囲むまでになった。それは私の菖蒲を育て愛でる喜びと心の余裕(楽しさ)の拡がりの軌跡である。同時に見て楽しんで頂く喜びの眼覚めの過程でもあった。そのビッグデイの眺界が今年、6月8日訪れた。

お客様をお迎えして
 この日は開校120周年という節目の東筑高校同窓会(6月9日)に参加するため帰郷するIKさんの鑑賞希望でセットされた。当人はマイファームの所在地を知らないので案内をYHさんに依頼し、この次第となった。YHさんが居れば私はいなくてよい、迷惑をかけないように勝手に見るから、との意向であった。この話があった頃私は蕾の生育と開花が例年よりも1週間以上早そうなので見頃は6月3,4日頃、遅かりし・・となるのではないか、と危惧していた。

 ところが4日にピークと思えた見頃は5、6,7日と上り調子で、なんと8日迄続いた。流石に2番花(後述)の蕾はもうなかった。今までにこんなことは無かったので驚いた。次の花をスムーズに咲かせ、奇麗に見せるため、毎日朝、降雨の中でも、咲き終わった花びら摘みをしてきた。この期間(6~8日)は毎日バケツ4杯分になった。7日は2番花の蕾が残っていたので明日もまだ多く咲くという実感はあった。しかも、当日は朝6時頃には降雨、10時頃には降り止み、しっとりした雰囲気でお客様を迎えることが出来た。4日間の咲きぶりを調整して8日を最高に見せるという天の采配のおもてなしがあった。

 お客様は6人、いずれも東筑高同級生で親友同士。いずれの方もきれいを愛でるだけではなく手間暇の苦労と丹精の心を知る大ベテラン。皆様から花びらが大きく立派、見ごたえがある、と好評を頂き、感激。後日YHさんから贈られた写真、にも「2018-6-8 川道さん菖蒲畑 日々丹精の功あり花数と言い大きさと言い 」と添えられていた。頂いた写真はアングルや構図が素敵で菖蒲の魅力を余すところ無く引き出している。本稿ではその写真の幾つかを使わせて(撮影して)頂くことにする。
 
IMG_4281縮小.jpg

花菖蒲園行脚に同行して
 その後菖蒲行脚に同行させて頂いた。隣町の建設会社の菖蒲園と宮地嶽の菖蒲園見学、プラスブ某レストランでの昼会食付。今まで他を見学したことは無かったのでこの機会は有難かった。前者は豊富な種類と圧倒的な株数で構内狭しと種類毎にブロック分けして展示してあり、一段高い展望所も備えられていた。入園料300円が高いとは思えない見事さであった。

IMG_4294縮小.jpg 

 後者は江戸菖蒲に特化した菖蒲田(固定地)と境内のいたるところに特設の水漕施設を巡らし無数の株が配置されていた。江戸菖蒲の粋、というかきりっとした魅力を余すところなく湛えていた。光の道を望む石段にまで花菖蒲が置かれていたのには驚いた。

IMG_4298縮小.jpg

 これらを拝見して我流ではあるがオンリーワンと思える点を二つ再確認できた。一つ、それぞれの株が勝手に育ち、茎をのばし、花を咲かせる。茎は多いもので一株で10本から40本のび、各茎は1番、2番花を咲かせ、多くは3、4番花まで咲かせる。中には5、6番花を咲かせるものもある。多すぎて花びらがこすれちぎれるものもあるがそれでも自然に任せている。その結果の群れ咲きの活き活き感が素敵であり、どこにもない魅力である。二つ、株、茎葉がしっかり育ち、花びらが大きく、とても生命力に溢れ艶やかである。同じ花に注目したが格別に大きいと感じた。肥後・伊勢・江戸の3種のなかで、我こそ(肥後)菖蒲だ、と主張しているように感じる。

 課題もある。白を基調とし、これにピンクや青の筋入りの花並びに赤紫や青紫のしぼり(ちじみ)の花並びに青紫・赤紫(古代紫)・濃紫の紫系の花が交じりあい、ここだけにしかない色合いの調和となっている。各株は全く不作為に配置してきたので自然に任せてきた。白が目立ちすぎる、という感想も頂いた、白は魅せるポイントではあるがもう少しなんとか、と気になっていたので、丁度良い色合いの調和を試行錯誤していきたい。以降この点も皆様には宜しくご指導を賜りたい。

終りに 
 YHさんの名案内と和気あいあいの菖蒲行脚のおかげでマイファームにしかない強みと課題を再確認できました。素敵な同好のご縁も頂きました。戴いた名写真と名文は長く心に留めます。ビッグデイに感謝!
nice!(0)  コメント(0) 

菖蒲は尚武に通ず [名リーダーを思う]

 6月4日、午前強い日差しのもと、花菖蒲(北・南菖蒲畑、東・西側溝菖蒲畑)へのホースでの水やり(水道水)中、ご婦人が見学を所望された。有難いことと心行くまでご覧いただくようご案内し、暫しの話、に花が咲き、驚きの展開となった。

 ご本人は同じ町内、この畑付近は遊び場で、で育ち、今も結婚されてお住まいとのこと。バラを手掛けておられるので当花菖蒲にもどなたが、との関心があり、黙っては立ち入れないので、丁度水やりの姿をマイカーで見かけ、思い切って立ち寄った、とのこと。

 ひとしきり菖蒲問答をしているうち息子さん二人が防衛大学校の学生と判明。こんなところでこんな奇縁、世の中は広いようで狭い。

 いつの間にか水やりの手を休め、二人の生活・クラブ活動・学校の訓練行事、父兄の連携等に話題が巡った。私の青春時代の一駒を懐かしく思い出し、今は昔と共感を覚えることばかりだった。なかでもカッター競技の話には今の私の心に響くものがあった。

 カッター競技会は2年生の春に行われる洋上での中隊対抗の短艇の櫂(オール)を漕ぎ速さを競うものである。試合に備え新中隊編成後から、1ケ月位、毎日ポンドまで駆け足で坂を掛け下り、漕法訓練を行い、猛練習に励む。全員の気合が一致しないと前に進まないし、揃って技量が上がらないと早く進まない。腰を入れて全身の力で櫂(オール)を引くので腕は鈍るし尻の皮はむけやすい。一旦むけると治ることなく最後まで悲痛との付き合いになる。話の様子では息子さん(お兄さん)は乗り組みクルーのリーダー(責任者)だったらしく、このリーダーを重荷とは思わず、なり切ることに集中し楽しんだらしい。私は楽しい、という言葉が大好きで、彼に好感を持った。

 私は平成30年4月15日陸上自衛隊幹部候補生学校の記念日行事における候補生隊対抗の綱引き大会優勝チームのリーダーの戦い前の鼓舞や勝ちを決めた後の雄たけびをする際の気合の入った声や動作からリーダーは勿論全員の楽しげな気分が伝わって来たこと、を思い出した。

 あるべきリーダー像を目指し日々修練する。そこを見据え、リーダーになった時になり切るよう修練する。それを積み重ねて自己の器を大きくし、いつか来るかもしれない国家の一大事を背負う大覚悟の持ち主となる。日々の修練との向き合いやなり切りは真面目に取り組めば取り組むほど修行僧のごとく十分苦しい。どうせなら心に余裕を持って、楽しく立ち向かって欲しい。

 心の余裕は風雅の心や花を愛でる等の優しい心を生む。強さだけではない優しさを持ち併せた真の武人になって欲しい。福岡は元寇撃退の輝かしい戦績が残り、大東亜戦争において負け戦に陥った際、唯一大健闘した菊(フーコン、18師団)や龍(雲南、56師団)という精鋭を生んだ尚武の地である。この尚武の遺風を受け継ぐ地元出身の後輩へ“明日の日本を頼むぞ”と心からのエールを贈りたい。花菖蒲が齎してくれた尚武の爽風に感謝。

 防大では統率参考資料「福島泰蔵大尉の統率」を作られたと聞く、防大で「統率」を福島大尉に学び、陸幹候校で遺族が寄贈した福島大尉の息遣い溢れる遺品に触れ、「拓く 福島泰蔵正伝」を座右の書として、武人の心を磨いて頂ければ耕々爺(こうこうや)の願いこれにすぐるものはない。

 最後に私の関わりを述べさせて頂くと防大では統率参考資料「福島泰蔵大尉の統率」を作られる際、私が寄贈した冊子「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」(1/2/3)を参考にされた。陸幹候校へ遺族が遺品を寄贈する際には私はその仲立ちをさせて頂いた。昨年上梓した「拓く 福島泰蔵正伝」の著者は私である。
 
 本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
nice!(0)  コメント(0) 

今年のマイ花菖蒲パート8(H30) [マイファーム雑感]

花菖蒲が見ごろ。本朝(6月5日)は雨、花びら摘みに向かう、一番の見ごろは最高にきれいに装わせたい。バケツ2.5杯分の残滓である、昨日がバケツ2杯なので見ごろを裏付けているかも。かなりハードであった畑作業続きの骨休みの雨、どこか心待ちにしていた雨、ゆったりした気分でブログを書く。

 今年は蕾の生育が早く、第1号開花が5月24日(南菖蒲畑)、咲きそろい始めは6月1日(北菖蒲畑)。例年より1週間ぐらい見ごろが早いと予測したが、その通り。咲き始めから雨が無くパサついている感じがしたので水やりを念入りにしてきた。

DSC_0144 (002)5.24縮小.jpg 

IMG_4107縮小.jpg  

 昨日(6月4日)は晴天爽風の群咲きと半木陰の風情を楽しんだ。(北菖蒲畑)

IMG_41336.4縮小.jpg

IMG_4156縮小.jpg   

 女房殿手作りの弁当(昼食)を菖蒲を見ながら味わうのも楽しいもの。その時にたまたま見かけた半開きの花びらが夕方には開いている様も確認できた。

IMG_4165縮小.jpg

IMG_4166縮小.jpg

 畑の周り(北・南菖蒲畑、東・西側溝菖蒲畑)に菖蒲を巡らしている。どこで作業に追われていても目に入る。これはこの地、この時だけの至福。

IMG_41496.4縮小.jpg

 そして雨模様(6月5日)のしっとりした群咲きや個の咲きぶりは格別。
 
IMG_41876.5縮小.jpg
 
IMG_42056.5縮小.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

友あり遠方より来る、「拓く 福島泰蔵正伝」が取り持つ縁を思う [名リーダーを思う]

始めに
  5月25日、高校の同級生、東京在住のT君が突然、我が家に訪ねてきた。私が30年前に東京から地方への転勤に際し、新車を購入したいと、当時販売会社に勤めていたT君のお世話になって以来の再会である。昨年10月「拓く 福島泰蔵大尉正伝」を読んだ、来年法事で福岡に帰るのでその時会おう、という言葉と共に近況を語ってくれた。「拓く」や私の出版という行為が何かの刺激になり、感じるところがあるのかな、と思った。
 不意の訪問であったが、僕も会いたかったので、丁度咲き始めた花菖蒲の手を休め、約束に間に合わした。「友あり遠方より来る、楽しからずや」にいう極めて楽しい時間であった。その様を語りたい。

1つ、彼の人生はプランドハップンスタンス【計画された偶然、クルンボルト】そのままである
 大学は某私大の演劇学科、しかし就職は車販売会社、セールス一筋で一生を通す。54歳で某損害保険会社に出向、代理店作りを担当する。車でT君についていたお客さんが保険でもお客さんになってくれ、いつの間にか代理店の仕事にも手を出した。60歳の定年で本社に呼び戻され、営業指導で全国の営業所回り。定年後に本社から声がかかるというのもセールスマン人生の評価の証である。学生時代に演劇つくりや役に魂を込めることで磨いたマインドをセールスに役立たせたに違いない。営業指導もかなり面白い仕事であったが、代理店との2足の草鞋を履いた。損害保険のお客さんが雪だるま式に膨らみ途中から代理店1本に絞った。車のセールスと同じようにお客様本位を徹底し、特に事故やトラブルのフォローは親身に現場、を貫いた。現在お客様は〇百人、この歳になるときつい、とおもうこともあるが信頼という自ら築き上げたブランドの誇りが自分を支えている。福島大尉は懸賞課題論文「降雪・積雪の戦術上に及ぼす影響」募集とその後の論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」要請という偶然の機会に際して、すでに準備が整っていた。計画された偶然といい方が相応しい生き様である。T君も偶然に見えるかも知れないが車販売会社入社に際しては磨いたマインドを武器とし、出向に際してはならではのお客様を持ち、(意識はしていなかったが)代理店の準備はできていた。定年後の営業指導職は完全自立への滑らかな助走準備であった。常に目の前に本気で向き合い、その積み重ねが切り拓いた人生であった。「拓く 福島泰蔵正伝」のご縁で人生を語り合えた。楽しさ極まる、の心境である。

2つ、零下12度での行動を究めたことが日露戦争勝利につながった
 T君は福岡県宗像郡の大島出身である。中学3年時に八幡市内の某中学に転校して東筑高校に入学した。高校時代は話したこともなく今回初めて知った。T君の説明によると、その大島は対露日本海海戦が行われた海域にあり、宗像大社の中津宮があり、三女神の次女“湍津姫神”を祀っている。「坂の上の雲」(司馬遼太郎)に出て来る佐藤市五郎の日本海海戦の目撃談は宗像神社、創建以来書き継がれている沖津宮日誌に記されている由。又戦没した露軍人の遺体が多数大島に漂着し、島民は総出で収容・弔いを行い、手厚く遇したらしい。日本人117名とロシア人4830名の犠牲者の慰霊祭が2012年からロシア大使も出席して始まったそうである。従って日露戦争は身近に感じているので「拓く」を興味深く読んだ。なかでも零下12度での行動を究めたことが日露戦争の陸戦勝利につながった、と語ってくれた。将に図星と私は感じた。これは露軍に並び越え・勝つのシンボリックなテーマであり、福島大尉が語らなかった、何を思いどう行動したかの真実である。露軍は零下12度になると露営を切り上げ翌日の行動に移る、よう方面軍レベルで規定していた。露営し続ける危険の方が暗夜・酷寒・吹雪等の悪天候下の(行きあたりばったりではない覚悟をもった)彷徨による危険よりも勝っているという考え方であった。一方日本軍では規定はなく、その認識さえも共有されておらず、身を持って確かめようとしていたのは福島大尉ただ一人といっても過言ではない状況にあった。八甲田山雪中行軍で確かめ、その結果を論文「露国に対する冬期作戦上の一慮」で対露戦勝利の方略として提言した。ここに感応してくれた読者に出会う喜びは何者にも代えがたい。

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
nice!(1)  コメント(0) 

第4師団創立64周年記念、福岡駐屯地創立68周年記念日行事に思う [名リーダーを思う]

始めに
 表記行事が平成30年5月27日、行われた。晴天無風の絶好の記念日日和。整然と並んだ隊列、一糸乱れぬ観閲行進に精強第4師団を実感した。その中で特に3つの点に大きな感動を覚えた。その様を書きたい。

式典における師団長高田祐一陸将の式辞
 厳しさを増す国内外情勢下、如何なる任務を与えられても即応し、任務を完遂するためには旺盛な使命感・責任感が必須である。隊員は今一度服務の宣誓「ことに臨んでは身の危険を顧みず責務の完遂につとめ、以て国民の負託に応える」に立ち返り、その重みを噛みしめ、覚悟を新たにせよ、と強調された。この服務の宣誓は他の公務員にはなく自衛官だけに課せられている。だからこその、最後の砦としての深い自覚に基づく静かな決意と受け止めた。私の心に深く響いた。

徒歩行進部隊の先頭は自衛官候補生
 観閲行進の先頭部隊は今年4月に入隊したばかりの教育中の自衛官候補生達である。僅か2ケ月弱で見事な練度に到達させた。見学の父兄も見違えられたことであろう。本人たちの努力は勿論であるが師団の教える力に敬服。明日を担う若者が先陣ということで師団の明日への希望も感じられた。

DSC_0156縮小.jpg 
 
小川福岡県知事の挨拶
 式典には服部副知事が出席し、知事挨拶を代読された。記念会食には知事が出席され冒頭2名の国議員と共に台上に上がられた。最初に小川知事が「昨年の北部九州豪雨災害での自衛隊の多岐にわたる災害派遣活動に感謝、どうしても今日は直接来てお礼が言いたかった、」と挨拶された。その後他の国会議員が挨拶される間、背筋をピンと伸ばし、微動だにされず10分以上「気を付け」の姿勢を続けられた。美しい!姿勢を正す敬礼だ。県民を代表し第4師団への心からの感謝と敬意が(態度に)溢れている、と私は言い知れぬ感動を覚えた。会場にも感動が静かに拡がるのを感じた。 

@DSC_8718 (002)縮小.jpg

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
nice!(0) 

ある集いに思うその3藤見会 [名リーダーを思う]

始めに
 表記会(H30.4.20、月瀬八幡宮(福岡県中間市)に参加した。東筑59期生が20年近く続けてきた恒例行事である。宮司の佐野君(59期)や奥様のご厚意に甘えて境内奥庭の藤の花、それからつつじを見ながら広間をお借りしての宴を楽しんでいる。ことしの藤は好天に恵まれ、見頃で大いに盛り上がった。

IMG_3955縮小.jpg

IMG_3958縮小.jpg

1つ、藤見会でのこと

1つ目、長続きする三役
 冒頭の会長挨拶で会長木村君が(会長の)なり手が無くて続けているが30年になると切り出した。そういえば、59期生が東筑高等学校同窓会の当番期になったのが昭和63年、その前年の同窓会で58期からタスキを受け継ぎ、活動を開始した。副会長はあっちゃん(女性)、幹事は三好伸介君(愛称はしんちゃん)であった。今に到るもこの三人の顔触れは変わらない。絶妙の組み合わせとそれが醸し出す空気感はならではのものである。

2つ目、「拓く 福島泰蔵大尉正伝」の紹介
 表記紹介の時間を頂いた。固い話でいかがなものか、と思ったが楽しさや問題識を伝えたくて、表記出版後今に到った心境として4つのことを語った。1つ、感想で最も多かった、何故15年も追い続けたかについて僕自身もわからない、のでその答えを探索中。2つ、武人福島大尉について書いたが、武人についての関心が薄れている、と感じる。本物の武人とは、を自衛官は勿論多くの人に知って貰いたい。3つ、本書で触れた(福島大尉の)地に足の着いた使命感について深堀したい。旧軍に学ぶべき一番大きなテーマであるような気がしてきた。4つ、我らの先輩高倉健さんが何故文化勲章を貰ったのか、観客の目線で考えたい。このテーマは面白い、例えば「羆嵐」(小説吉村昭、ラジオ番組脚本倉本聰)。もう少し新境地のあぶり出しをしてブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」に纏め編(仮称)を設け、投稿予定。

2つ、59期会報全10号(平成14年~平成24年、1回発行/年)を手にして
 宴の中で三好君から表記会報を揃えている。欲しいものは寸志を添えて申し出よ、との連絡があった。今頃??三好君の思い入れの強さを感じ、紙面で見落とした?何かを感じ取りたい、と手を挙げた。後日わざわざ届けて頂いた。記憶に無かった私自身の関わりについても、藤棚の下や還暦記念の献納の際に(川道君が)写っている写真もあったばい、と添えられていた。併せて(川道君)の記事も2つあったばい、一つには花菖蒲の写真が載っとったばい、と言い添えられて。


1つ目、59期会活動でオアシスの絆を強く
 会報創刊号(平成14年7月1日)で木村会長は59期会のことを「我々の集いが”老後のオアシス”となるよう絆を強くしていきたいものですね」と述べている。であるからしてさりげなく会長の補佐や裏方を仕切るしんちゃんは”オアシス守り人”である。余談だが三好君は今も九州トースイの社長だそうで、30年その職にあり続けている由。人間力や仕事力さもありなん、と思う。

2つ目、藤見会の始まりと今への転機
 本題に入る前に舞台となった藤見会について59期会報から拾ってみたい。中間北中学校長等を歴任し、皆の世話役も進んで引き受けていた故奥村良子(年没)さんの発案で藤見会が小人数で始まったらしい。創刊号には「中間市の田園調布」というタイトルで月瀬八幡宮の宮司佐野君が神域を護る心がけと共に同期交歓(オアシス)の舞台として立ち寄って欲しい、との思いを吐露している。それに添えられた写真は藤棚の下で美女5人。初期藤見会の原型が確認できた。そのうち還暦を記念して59期生一同で月瀬八幡宮に牛の置石(当初は午歳に因み馬の奉納を考えたが天神様との関連で牛になった由。)を贈ろうという話になり会報創刊号で有志を募り翌年奉納に到った。会報第2号(平成15年5月20日)で献納行事と経過(像の写真付き)、藤見会に合わせて行ったこと、が掲載されている。

3つ目、事務局便りにみる会報への思い入れ
 先ずは事務局便りに載せていることを拾ってみたい。
三好君が中間北中学校の校長室に奥村さんを訪ねたおり、奥村さんが学校新聞を作っているのを見て、ふと思いつきで同級生新聞があったら良かろうな、と話したところ「それいいねーやろやろ」と大乗り気、とんとんと今回の発行となった。回を重ねることに不安に思いながら恐る恐る発行した【創刊号】。会報作りその他にも経費が必要なので事務局で話し合って同期生会費1000円徴集することにした【第2号(平成15年5月20日)】。奥村さんがなくなって手間取り、原稿依頼と発行が遅れた。そのことのお詫び【第5号(平成18年9月1日)】。会費納入者全員に原稿依頼の用紙を送付したところ20通を越える原稿が届き、紙面は一挙に6ページの拡大版に。従来は毎号2ページ。創刊当時10号までは続けようと故奥村さんと話していたが次回が最終号との予告【第5号(平成18年9月1日)】。奥村さんが亡くなり途方に暮れていた時、仰木三知子さんの助けでどうにか約束の最終号発行まで到ることが出来た。原稿がなかなか集まらずいろいろ工夫した。やり切った満足感等の回顧【最終号(第10号)(平成24年10月1日)】。
 
 平成20年某月、第6号(平成20年7月)の原稿用紙が送られてきた。三好君から電話も頂いた。茫洋とした言い回しで断ろうかと思ったが、しんちゃんの頼みだから書こうか、という気になった。その気になると我ながら面白いテーマが浮かび楽しく書けた。平成24年某月はみーこから電話で第10号で最後だから書け、書くことがあるやろうと言われ、その気になり、健さんの返事のことを書いた。我ながら福島旅のエポック文であると感じた。今回私は最終号(第10号)の三好君の回顧を見て原稿を集める計り知れない気苦労と奥村さんが亡くなって途方に暮れていたこと並びに三知子さんの助け舟で救われたことを思い知った。そして今回の59期会報(全)の提供での心遣いの深さにも初めて思いが及んだ。

 私は三好君の茫洋さに惑わされ、内心の切羽詰まった思いや気遣いに気づかなかった。茫洋さの裏に前向きならばこその苦悩や緻密な気遣いがある。良いと思うことは先ずやってみる人。しんちゃんが言うならやろうという人が周りに集まり、いつの間にかことを成し(約束を実行し)てしまう人。同じ方向を向く人や一緒に行動した人に苦悩を見せずに気遣い、そのことを記憶のポケットに大切に終ってくれる人。59期会のオアシスの守人が実に相応しい人である。


 終りに
 59期の旅行(毎年及び記念旅行(還暦並びに卒業50周年))や名簿の作成等の事業も活発で、オアシス守り人としての役目を十二分に果たしてこられた。もうじきマイファームの花菖蒲が見ごろを迎える。花見がてらしんちゃんの記憶のポケットの中の味わい深い話にも花を咲かせたいもの、である。尚寸志は受け取って貰っていない。これを以て寸志と受け取って貰えたら有難いが・・・。
 
以上

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。

nice!(0)  コメント(0) 

水陸機動団創立記念日に思う

始めに
 表記記念日(平成30年4月28日、団長は青木 伸一陸将補)にご案内頂き、参加した。ブログ「相浦駐屯地観藤会に思うー藤が取り持つ水陸両用団(仮称)新編への思い」(晴耕雨書、2014-04-28 15:10)で思ったことをこの目で見届けねば、青木団長始め新編なった水陸機動団の雄姿拝見と心躍らせて馳せ参じた。

新編水陸機動団をこの目で見て 
 快晴無風絶好の日和で多くの見学者が押し掛けていた。私は案内の0900佐世保駅前発のシャトルバスに乗る予定で余裕をもって乗り場に向かったが、すでに200名位並んでおり、後続者も詰め掛けている状況であった。結局40分後に出発のバスに乗車し駐屯地に向かった。関心と期待の高さを実感した。
 
 IMG_3971縮小.jpg 

 式はすでに始まっていた。式場に整然と並んだ部隊の威容、2本の連隊旗と部隊の後方の水陸機動車がひときわ目立って、水陸機動団が成った、と実感できた。団長の訓示の中の「全国から馳せ参じた他人の幸せを自分の幸せと思えることに誇りを持つ者達」という言葉に思わず感じ入ってしまった。ここに向かって発揮された関係者の先見性や熱情に敬意を抱くと共にこれからが正念場、と感じた。初代を託された智将青木団長の名采配で日本中から集まった精鋭ならばこその問題意識や改善意見が見事に、これからに、結実されるよう心から祈りたい。

よろく
 どうしても記念日で会いたい人がいた。IM氏である。ことしの年賀状で「①1月2日で80歳、身体の手入れ怠らず新鮮な魚を食しそれなりの運動。②絵画教室7回生となり、ものをしっかり、見ることが重要なことを学んだ。③相浦駐屯地OB会長9年目、水陸機動団創設のためOB会が新たに立ち上がる態勢の構築が必要。」と記してあった。いつものことながら前向きな生き方に感服した。又他日「拓く 福島泰蔵正伝」の読後感を寄せて頂いた。それには「人間愛を見た。理由は云々」とあり、幹候校の「福島大尉資料」活用と合わせ「拓く」を紹介した、とあった。有難い思いで一杯になった。私はIM氏が施設学校幹部上級課程学生であった時の課程主任教官であった。IM氏に会う楽しさは格別。

更なるよろく
 懇親会食場で小川清史氏(前西部方面総監、現明治安田生命保険相互会社 業務部統括顧問)にお会いした。同氏は冊子「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」(1・2・3)を幹部学校に寄贈した際の学校長で幹部学生教育の重要性について篤く語られた。その折に立見師団長の不覚の思いを気付かされ、「拓く」の大きな柱とすることが出来た。その節のお礼を申し述べ、出版後に到った新境地として「地に足の着いた使命感」を深堀していると申し上げたところ、同氏は「自分の体や家族が傷ついたら痛みを感じるだろう。部隊や国家に対しても自分のこととして痛みを感じられるようになることが大事であり、自分はそう教育した」と述べられた。「痛みを感じる」は私がもやもやしていたところを鋭く突くキーワードであった。又貴重なご指導を頂き、望外の更なるよろくを得た。感謝!

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。

追記
 MI氏から頂いた名刺の裏に素敵な絵が載っていた。尋ねたところ、料亭「花一」(佐世保市船越)から九十九島の夕景を平成28年8月20日に描いた。ラストサムライのファーストシーンであり、最もお気に入りの記念の一枚だそうである。撮影のスキルが絵に追いついてないので見苦しいところはお許し下さい。
縮小IMG_4003.jpg
nice!(0)  コメント(0) 

第4師団中隊長等集合訓練における講話に思う

はじめに

 表記中隊長等集合訓練が第4師団(師団長高田 祐一陸将)で計画され、その一環としての部外講話の講師を私でお役にたてるなら喜んで、と務めさせて頂いた(H30.4.4)。陸上自衛隊は3月末を以て創隊以来の大改革が漸く成った。その背景の安全保障環境は厳しさを増し、安全保障制度整備に伴う新しい役割も増大する。その第一線を担う第4師団においてはその滑り出しと第4師団の今年度隊務の開始に当たり、各連隊等の中核指揮官である中隊長等69名の意識・識能向上も不可欠と判断され、師団長以下より真摯な態度で、より大きな決意をもって遂行するべく計画されたもの、と理解して、私はその資となる素材を提供すべく表題を「福島泰蔵大尉の使命観と統率」として臨んだ。そのため着意したことや講話を通じて思ったことなどを書きたい。本講話は「拓く 福島泰蔵正伝」(著者川道亮介、文芸社)に拠った。

1つ、講話の肝

 福島大尉の「3つの心」を本講話の肝として、どのようなものか、どのように身に着けたのか、発現されたのかを話した。私は使命感の考え方や取り組み方を使命観と捉えている。

1つ目、己が為すべきと信じることを断行する心
 生来自分の考えを主張する福島青年は己が為すべきと信じることを断行する心を傾向として持っていた。挫折・窮途に悩んだ福島青年は覚悟を持って入隊し陸軍少尉に任官と共に志(次項)や使命を深く突き詰めて、私心を捨て、義といえるほどに純粋な心の持ち主になった。日清戦争で劣弱な冬季戦備で兵が護られていない悲惨な体験をしてその心(使命感)は地に足の着いたものになった。日露戦必至の時に雪国に駐屯する弘前第31連隊の中隊長に上番し、その使命を冬季戦備を明らかにし兵を護るのが自分の先天的な義務であると分析し、後れを取っている冬季戦・行動の研究調査、その一環としての実験行軍等及び露軍始め外国軍の戦史・典令などの研究を始めた。特に露軍研究は任官以来の学ぶから並び・越えるレベルへと深化した。使命感を行動に移す際には未明でも誰が何と言おうと前へでる、自己の発意を命ぜられて任務として行うなどをならではのものとした。

2つ目、志した武人(もののふ)の心
 福島大尉は兵制とそれに基づく武人(臣)や軍旗の起源を文武の制度が整った奈良時代に置いていた。その時代は唐風に倣い大宝律令を定め、2回目の遣唐使派遣に際して倭国ではなく日本国と伝えさせ、冊封を明確に拒絶し、大唐の脅威を感じつつも誇り高き「日本」の始まりであった。福島大尉は自分のことをもののふと称したがその心は「顧みずの心」であった。陸軍軍人として野外要務令綱領にある「死生を顧みず本分を尽くす」は大伴家持が万葉集で詠った「海行かば・・・(略)顧みはせじ」に連綿と続くもののふの心ととらえていた。大伴家持は建国以来大王のおそばに仕え、奈良時代も天皇の臣下であり続けた大伴氏の「氏」長という立場にあり、万葉集の編纂者であった。同時代の聖武天皇は陸奥国の砂金生産を祝いこれで東大寺大仏が成ると喜ばれ臣下の各「氏」に詔を賜われた。大伴氏に対しては建国以来仕えてくれた心を尊まれ、変わらぬ忠心を励まされた。この時大伴家持は任地富山にあったが、御心にお応えして前記歌を詠んだ。
 自衛隊員は任官に際し、服務の宣誓をする。その中で「(略)ことに臨んでは危険を顧みず身を以て責務の完遂につとめもって国民の負託に応えること」を誓う。「危険を顧みず」の心を雲仙普賢岳災害派遣や東日本大震災等の派遣活動において献身や勇気として示してきた。そのことで今や国民の90%が自衛隊は必要と認めるまでに至った。福島大尉を学ぶことは福島大尉を通じてもののふの心を学ぶことである。そこにこの誓いが自衛隊員(自衛官)だけに国家から求められている、ということを加味すると、「顧みずの心」は連綿と続く武人(臣)の心、もののふの心の象徴である、と言っても差し支えない。

3つ目、訓練・研究等で常に心掛けた予想外を喜ぶ心
 陸軍野外要務令綱領冒頭には「百時皆戦闘を基準とすべし」とある。福島大尉はこの綱領の体現を一生涯かけて励んだ。その筆頭が予想外を喜ぶ心である。福島大尉は戦場で経験していない未知に出会わないよう平素から予想外の未知に出会う、厳しい場を求め訓練や研究調査を行った。このため悪天候などを願ってもないと喜び、今出来ること以上のものを求めようとしない姿勢を厳に戒めた。

2つ、3つの心が齎したもの
 その代表例として立見師団長の不覚の思いから浮かびあがった「共動」を上げた。八甲田山雪中行軍では前人未到の厳しさで非常の困難を究めながらも一人も倒れなかった。黒溝台会戦の決戦で福島大尉戦死後に遺志を継いで黒溝台を一番乗りを果たした。隊員一人一人が役割をわきまえて受け身ではなく自分のやるべきことを尽くしたからであり、そこには福島大尉の3つの心の共有・感化があった。

3つ、3つの心の今、についての私見
 素材、福島大尉を語り終えて以下の3つの私見に気づき、整理した。私なりに本講話の意義を理解出来た気がした。
 1つ目について、福島大尉が中隊長として部下に責任を持ち、透徹した使命観をもって国や陸軍に尽くす心の尊さは今も不変である 
 2つ目について、福島大尉の武人、もののふとしての顧みずの心は志や覚悟の面において今の服務の宣誓の顧みずの心に繋がるものがある。
 3つ目について、福島大尉の考え方は有事に備え練度向上を只管追求する自衛隊の心構えとして今に通じるものがある。

4つ、思ったこと
 講話の中で、福島大尉の強い覚悟の背景に入隊前の3度の挫折や窮途の切ない思いがあったことに触れた折にある思いが湧きだし始めた。私は45年前、中隊長に上番して1年たった頃、大きな事故が連続し、各方面に多大な迷惑をおかけした。隊員にも申し訳なく自分も落ちこんだ。100人の部下を持つ中隊長の重さに向き合う覚悟や努力不足があった。中隊長にさほど緊張感や覚悟を持たずに上番し、前任者の貯金を自分の力と錯覚して、目の前の業務に忙殺され心ここにあらずのつけが出てしまった。事故が連続し呆然自失状態に陥って初めて自分の偏った「為すべき」つまり「3つの心」がけの弱さや覚悟の無さや親身の指導不足等々を思い知らされた。「3つの心」を究め、(立見師団長が福島大尉を称した)「塾者」として中隊、100人の上に立つ、(ように努力する)というあるべき姿に照らしなんと未熟であったことか。そういう状況になってもついてきてくれた隊員のお陰で覚悟を決めて、自分の「為すべき」を尽くし、立て直すことが出来た。「心におくれをとっていた。このままで終われない」と気持ちを新たにしたこと及び支えてくれた隊員と見守ってくれた自衛隊への感謝の気持ちを忘れたことはない。

終りに
 各中隊長等の受講される態度や目の輝きにはその職を如何に遂行するか、に全精力を注入している様子が溢れていた。そこに触発されて私も篤くなった。各中隊長等の職遂行上の関心や思いがどの辺にあるか、については忖度することなく頂いた時間、90分間を福島大尉を語ることだけに集中した。とにかく福島大尉の真実や魅力を伝えたい一心で・・・。
 各中隊長等には素材、福島大尉の生き様から適宜取捨選択する共に想像力や創造力を働かせ、これからの未知に備えて、危険を顧みず身をもって職務の完遂につとめ国民の負託にますます応えて頂きたい。
(終り)
 本記事はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
nice!(0)  コメント(0) 

「拓く」読後感に輝きを感じる人達その6-制服を作務衣に着替え「利他の菩提心」をNPOに籠める男 [名リーダーを思う]

始めに

 平成30年2月28日、土井義尚兄と昼食を挟んで4時間という長時間の懇談、福岡空港で帰京の便を待つ間、の機会を持った。以前からゆっくり話を聞きたいと思っていたが土井兄が「拓く 福島泰蔵正伝」を読んでくれたことから意見交換をという話になった。お互いの相手に対する最大関心は
僕(川道)は「自衛官退官後の誰にもまねできない生き様を貫くもの。」
土井兄は「川道さんの福島泰蔵調査エネルギーの源はどこから出てくるのか。(中略) 執筆間の過程での その精力的な 取材活動の継続を可能にしたものは何だったのか。」でした。ものすごく楽しい瞬く間に過ぎ去った時間を共有した。

 土井兄は防衛大(9期、昭和40年3月卒)出身、私と同期生である。幹部候補生学校・武器部隊勤務を経てスエーデン駐在武官・第7後方支援連隊長・武器学校長などを歴任し初代陸上自衛隊補給統制本部長(陸将)で退官。その後永平寺(曹洞宗本山)で1年2ケ月修行をし僧侶となり、乞われて小松製作所顧問に就任、その後特定非営利活動法人「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」を立ち上げ(初代理事長)、軌道にのせたと見るや新たな特定非営利活動法人「四端会」を立ち上げ(理事長)、合計10年を節目として男は脱皮すべきとの持論に基づき父祖から受け継いだ高成山自性院住職として新たな奉公の道(NPO)を模索している。退官後のユニークな生き方に驚きと敬服の至りであるが、土井兄の退官後のボランテア活動を貫くものは何か、に思いを巡らせた。
 ある日、仏壇に向かい、私も曹洞宗なので本宗の教義書「修証義」を手にして、発願利生の章中の「自未得度先渡他」の「菩提心」に思い当たるところがあった。「自未得度先渡他」の「菩提心」とは自分の利を後にして他者の利を先にする「利他」の悟りを拓く心である。この解釈にはこの悟りに到るために未知である「利」への道を拓くことや(人が嫌がる)より困難な「利」への道を進むことも含む、であろう。貫くものは「利他」の悟りを拓く「菩提心」と思い至った。

1つ、「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」の活動  
 
1つ目、概要
 
 会は世界各地の紛争跡地にある地雷・不発弾処理に直接かかわる、専門技能を有する元自衛官を主要メンバーとして構成される、国内では唯一地雷処理業務等を実施するNGOである。2001年9月から任意団体として設立、地雷処理・不発弾処理を中心事業として活動を開始し、2002年5月に東京都からNPO法人に認定された。カンボジア不発弾処理活動は2002年7月1日から、ラオス不発弾処理活動は2006年2月28日から開始した。アフガニスタン地雷処理活動は2006年11月9日から開始し、2013年3月に終了した。2008年5月に国税庁長官から認定NPO法人の認定を受け、アンゴラ地雷処理活動は2009年4月20日から開始し、2015年4月に東京都から認定NPO法人の認定を受けた。(ホームページから抜粋)

2つ目、立ち上げ

 永平寺の修行を終え、小松顧問として働き始めた土井兄のもとへ、カンボジアでJICA職員として活動をしていた旧部下から、カンボジアのUNTAC終了後日本は一人残らず引き揚げてしまい、何もフォローが無い。外国軍はPKO終了後も残って目に見える形でのサポートをしているのに比べ肩身が狭い。地雷処理のNPOを作ってくれないか。一度見に来てくれとの、連絡が入った。翌年も連絡があり、現地調査(2001.12)に出向いた。その結果二つのことが分かった。1つはCMACというカンボジアの地雷処理組織の副長官から土井兄にコンタクトしてきて、カンボジアでのPKO活動(UNTAC)の高い評価が生き続けており日本のNPOを待望し、連携したがっている。2つは地雷の犠牲者は内戦が終了して避難民が故郷の部落に帰住し始めて5年から10年間がピークとなるが危険回避教育が徹底すると急減し、その後は一定の傾向を示す。これに比し不発弾の犠牲者はほぼ一定である。そして一定傾向にある地雷の犠牲者数と不発弾犠牲者数の比率は5分5分である。不発弾処理から手掛ければ何とかなりそうだとの感触をつかんだ。武器学校長経験者として地雷処理が出来る施設科の人脈には暗いが不発弾処理が出来る武器科の人脈には自信があった。尚且つ費用的にも不発弾処理活動費は1/10~1/20で済むので全くゼロから立ち上げることを考えるとまず必要最小限の不発弾処理チーム数(1ケ)でスタートとせざるを得なかった。この時点で立ちあげの主な課題が3つあった。①危険な国際貢献活動に踏み出すことを国民は支持するか、②元自衛官が国際貢献の表舞台に出ることに国民の抵抗はないのか③2年間の活動実績というNPO認定の要件をクリアする活動をしなければならないがその2年間の財政・人的基盤をどう築くか。①②について、土井兄は顔の見える支援をしなければ口や金だけでは国際貢献の実は挙がらないという信念があり。陸幕勤務、スエーデン駐在武官時代等に築いた防衛省や外務省人脈、前述CMAC及びUNTACを通じて築いた国内外の人脈をフルに活用して真の期待(必要性)を把握し、元自衛官という専門家でなければ初期の目的達成はできない、と確信して、設立趣意書に「日本においては自衛官経験者が中核のNGOが期待されながら、関係者はこの種の活動を控えてきました。それなりの理由がありました。し かし、今や、国際協力に関する日本国民の意識は、著しく変化し、自衛官経験者が中心となったNGOが設立されても、国の内外から誤解を招くこともなく、そ の真意が正しく理解される時期が到来したものと判断するに至りました。 日本人の誠意と真心を国際協力の現場で、お金や物のみでなく現地で働く人間の姿として表現したいものと決意した次第であります」と思いを記した。③について、土井兄は小松で貰う給料の半分はお布施をするという思いがあった。定年後に貪ることはないという達観と布施の修行、という思いであった。その布施する先がJMAS認可に向けての2年間の活動資金拠出になった。加えて多額の拠出や寄付を申し出てくれる同志及び現地活動をボランテアで行う同志に恵まれた。小松製作所の全役員にも会員として名を連ねて頂いた。土井兄は他人の拠出や寄付も布施の修行の一環として有難く頂くという認識である。

3つ目、拡充

 やがて土井兄は業務範囲についての定款を見直し、地雷・不発弾中心の業務から、領域の拡充を志向する。安定よりも組織の特異性を発揮し本来の使命を限りなく果たすという理念からであった。自衛官OBを主体とするので軍事的知見、危機管理の知識技能、経験を積んだシニア集団という特色を背景に「JMASしかできない活動はJMASの責任でもある」という方向性を明確に打ち出し、アフガニスタンでの地雷処理活動調査の段階で外務省からの委託を受け現地調査を行った武装解除(DDR)事業そのものをJMASが引き受け、国際監視団(IOG)の運営も引き受けて、他国に参加を呼び掛け、2004年3月~2005年7月DDRの実現に貢献し、”顔の見える国際平和協力”の一端を担い、日本の旗をしっかりと立てた。

 後に「オヤジたちの国際貢献(2)」(2006年11月11日、発行人理事長土井義尚)の「コラム16 敢えて冒した無謀」で上記について「JMASのアフガニスタンDDR受託はJMASの立場・権限・補償能力・自己活動資金等の能力から考えれば無謀に見えたし、覚悟の選択であった。しかし、(自衛官OBよりなる)JMASの能力、特に指揮統率力、計画実行力、野外行動力等々オペレーションを実行する総合力から考えれば十分に自信が持てる仕事であった。決して無謀とは考えられなかった。幸運に恵まれたことも間違いない。」と総括している。このコラムにこの種使命遂行に関する自衛官OBならではの自負や誇りや覚悟が滲み出ている。

4つ目、アンゴラでの事後への布石

 アンゴラでの地雷処理活動(現地事務所長)は理事長を辞し、一兵卒、途中で理事も辞めて、となって2009年4月赴任した。赴任予定者が連続の外国勤務を奥様に反対され急遽辞退したのでその代役に率先して就く、JMAS自体が軌道に乗ったので(組織の私物化を避け)後輩へ申し送る、10年という節目で脱皮すべきという持論からも退くという判断をした。

一兵卒となってアンゴラに渡った土井兄は3つの試みを行った。

1、アンゴラの人々との交流、地雷処理に止まらず、を行い、友好関係発展の楔を打ち込んだ。①畑を耕し種を播き、育て収穫する、自然による教育の、「農業心」支援、②塗り絵での絵心支援、③お遊戯支援、④サッカー(土井兄は防大ではサッカー部)。これらの中から特に農業心による自立の手ごたえは、帰国後の次のパフォーマンスの大きな財産になった。 
2、JMAS後のNPO構想の芽生え
 アンゴラ在住の中国人は20万人、対する日本人は39人。圧倒的なマンパワー差に思いは尖閣諸島等の国境(領土)や排他的経済水域の経済・漁業・海底資源の保全へと向かった。今一般の日本地図は離島を含め領土領海の関係位置や全体が一目でわかるようにはなっていない。日本国民の領土保全の意識を高めるような地図を作ろう、と思い立った。
3、根本善の追究
 アンゴラの人々の貧富の格差を肌で感じた。食べたくても食べれない、学びたくても学べない、病気になっても医療が受けられない、治安が悪くいつ命を落とすかわからない、安心して暮らせる環境がない人々にとっては先ず生きること、次いで生き抜くこと、最後は生き抜いて死ぬことが一番の価値であり、善である。この実感は帰国後の次のパフォーマンスの財産となった。

 私も刺激を受け根本善「生き抜いて死ぬ」を考えた。私は「人は生きたように死ぬ」や「終わりよければすべて良し」の言を信条としてきた。今まで頂いた命は自分なりに精一杯生きてきた、という思いはある。最期に良かったと肯定したり感謝できればいうことなしの人生だと思っている。

2つ、四端会の立ち上げ

 会を2013年02月26日設立した。その目的は「社会教育の推進を図る活動の一環として東西約3,400Km、南北約2,800Kmの日本領土についての学習・訪問等、四端八端運動を準備・提供し、その認識と意識の向上を促し、現在及び将来にわたり、不特定かつ多数の日本国民の利益の増進に寄与する)であった。

 特色は以下の3つ

1、年に1万部(経費100万円)作成し希望する学校などへ配布する。
2、要望を聞き地図作りに反映する。例えば県の旗を地図の周りに掲載し、郷土意識の醸成も図る。
3、自ら拠金し、企業や一般から寄付を募った。ここでも拠金はお布施という修行の認識は一貫している。
3つ、高成山自性院(山梨県甲府市高成町)住職を核とした地域貢献

 土井兄は地域貢献活動構想を練っている。問題意識は「急速に進む過疎化・高齢化で限界集落が崩壊し、個人は豊かさの中で根本善に向き合う真剣さや感謝の心が薄れ、老人・低レベル生活者・病者・受刑更生者等の社会的弱者を救うセイフテーネットは貧弱」というものである。これらの解決策としてアンゴラで掴んだ「農業による自立」を基本に「全村全花」運動や社会的弱者のセーフテーネット作りを目的とする企画を検討している。

終りに 
 
 土井兄は最後に「拓く」の良さを本当に理解できるのは自衛官(OB)だけであろう、との感想を述べた。その発言に二つの思いを感じた。一つは自身が自衛官OBならではの使命を遂行してきたという自負や誇りと相似るものを私の「拓く」に感じてくれた、という思い。二つは軍事常識が薄くなっている現状では自衛官経験者達の心が動かされた点について一般人に理解が及ぶのかな、という懸念の思い。しかし息遣い溢れる資料に忠実に書いた”これが福島大尉”だ、という迫力や私の熱情が一人でも多くの方に伝わって欲しい、と思っている。自衛官や同OBに限らず共感する方の輪が広がって欲しい、広く武人というものへの理解を深めるために、と思っている。

  今にして思うとほとんど私から土井兄への関心話ばかりで、私に対する関心「川道さんの福島泰蔵調査エネルギーの源は どこから出てくるのか。(中略) 執筆間の過程での その精力的な 取材活動の継続を可能にしたものは何だったのか。」には殆ど答える暇(いとま)がなかった。でも聞きたい・知りたい思いとそれを楽しむ心の丈、だんだん良くなる法華の太鼓ならぬ感応と共振の輪がどんどん広がる楽しさを味わう心は伝わった、と思う。それが彼の関心に応える今の私の答えかも知れない。

 聞き違いや理解力並びに筆力不足で土井兄の意図から外れるところが多々あるかもしれないがその節は分不相応な私の心響に響くところを書きたい、という強い思いに免じ、お許しを頂きたい。(終り)
 本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
  

nice!(0) 

「拓く 福島泰蔵正伝」読後感に輝きを感じる人達その5続きー自衛隊で培った財産を今に活かす山口八郎氏 [名リーダーを思う]

続き
大共感=輝きの元

 いずれも銃剣道の事例が目立つが、ここに重なりというか大共感=輝きの元がある。陸曹昇任直後の教育(当時は陸曹候補生課程教育はなかった)で銃剣道と出会い、ほれ込んで練習し、見事1級に合格してから本務への精励に加え銃剣道の選手及び指導者として歩んだ。この間、今も実践陶冶の銘としているのは以下の「武道を学ぶ人としての心得について」である。「真剣勝負の場に立つ時を常に念頭に置いて、平常心が齎す無念無想の境地と生死を賭けるに相応しい崇高な心境で臨めるよう強靭な肉体、健全な道徳精神、優れた武道精神、熟達した剣技、格調高い人間形成に生涯研鑽練磨しなければならない。」(筆者要約)

 この「武道を学ぶ人としての心得」の真剣勝負の場に立つ時を常に念頭に置く「体現」の精神は福島大尉が任官以来百事戦闘を基準とする「野外要務令綱領」の「体現」に努めた精神が重なっていた。銃剣道に打ち込んだ本気や覚悟は大共感=輝きの元となったと思われる。

 
 山口八郎氏が今も活かしている財産

 山口八郎氏が自衛隊で培った財産として今でも実践していることが三つある。一つは銃剣道をとことん究めることである。技を向上し己を磨き、強い戦士や健全な自衛官を育成すると共に銃剣道連盟の活動を支え、退職後は若者への普及にも力点を置いている。二つは部隊の大小に関わらず「自分が口にしたことの責任は自分がとる。本気で向き合うことで人や事態が動く」という、指揮官として、人間としての本気や覚悟のモットーである。上からの命令・指示であっても自分が部下に命じた以上はすべて自分の責任である。こうあるべきと思ったことはやり通す。筋の通らんことは誰であっても退かない。具合が悪くなっても逃げずに前を向き、(誤りや失敗したら)私のせいです、すみません、と謝る。シンプルで明快な座右の銘である。三つは上司・同僚・部下との絆を大切にし、感謝を忘れない生き方を心掛けている。特に仲間や部下を思う上司への意見具申は篤い。

 以上の3つについて、自分の人生においてはじるところがない、お陰様で周りの人から山口にまかせておけば安心だと信頼を得ている、と自信を持って語っている。山口八郎氏は熟練の技能・知識を有する准・曹・士の最先任者としての地位を築き、退官後はその財産を磨き、活かし、恩返しを続けている。

銃剣道について

 今だ現役選手!自らの高見に到達したという銃剣道範士(H16.11.13)8段(S53.11.10)・短剣道範士(H28.12.17)8段(27.11.23)を受験し合格して、日々精進の意欲を燃やす。錬武館(館主田中武樹氏)の指導員として小・中・高校生に銃剣道を教え、高校生の国体出場を果たして、更なるすそ野広げに意欲を燃やす。佐賀県銃剣道連盟会長を辞し(H29.5.31)、名誉会長(H30.1.17)として、平成35年佐賀国体を円滑に主宰できる組織体制つくりをサポートする側に回っている。

IMG_3836縮小.jpg

モットーの実践教育について

 銃剣道の指導を通じ、教え子や現役の自衛官、幹部・曹を問わず、に自らのモットーを噛み砕いて伝授している。福島大尉のような人が自衛隊にいてくれたら、との思いでそのモットーを教える一環として本書「拓く」を推奨して頂いている。大変光栄で且つ有難い思いで一杯である。

終りに
 
 最後に福岡県小石原村村民運動場及び生活改善センター用地造成工事(昭和45年7月8日~8月8日)を作業隊長(当時一等陸曹)として行った時の思い出に他とは違う味があるので記しておきたい。
 剣道4段の腕前と指揮・指導能力を見込み、村長・小石原中学校校長から課外に中学校剣道部の指導を依頼された。7月14日から30日まで毎日課外に指導したが同中学校は8月1日・2日の甘木市・朝倉郡の剣道大会で初めて優勝した。聞けば30年以上いつも1回戦で敗退していたとのことで村中お祝いで湧きたった。初めての隊長であったが工事の出来は勿論広報活動にまで目を配り成果を上げた。又上級部隊も承知しているはず(と思っていた)作業についてその上級部隊の検査で質問された。上司の命令であったがその上司の名を出さず、機転を利かした説明をし、了承された。その上司が報告していないということがぴんと来たが、自分は納得して命令をしたので口にした以上は自分の責任と覚悟を決めた。

本稿はブログ「福島泰蔵大尉の実行力を訪ねて」にも投稿しています。
nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | -
メッセージを送る